< 置き傘の意味を考えてみよう >
玄関の壁に立てかけられた「それ」を目に止めて、妙は小さく息をついた。忘れたのだろうか。それとも、わざと置いて行ったのだろうか。どちらとも判断がつかず、微苦笑する。
困った人ね、と呟いて、柄に手を伸ばした。
「アレ。どこ行くの、おねーさん」
軽やかな声が、頭上からかけられる。妙はややうつむけていた顔を上げて、声の主を探した。
視線を左右に移動させる妙へ、「こっちだヨ」と声が答える。その声が妙の耳に届くのと同時に、男が降ってきた。
おそらくは屋根の上でも渡り歩いていたのだろう。どこぞのテロリストでもあるまいし、とも思ったが、それに関しては構わなかった。どこをどう歩こうが、どんな誰と被ろうが、妙にはあまり関係がない。
しかし、急に落ちてくるのはやめてほしい。
「こんな登場の仕方、驚くじゃない」
「ああ、ゴメンネ。すぐにでも妙に会いたくって」
「自分の欲求ばかりを満たそうとするのは、いい男のすることではないわね。女の心を掴みたいのなら、もう少し勉強したらどうですか?」
ため息をつきながら、妙は改めて神威に向き直った。それから口元を緩めて、「ちょうどよかったのも事実ですけど」と、手に持っていた物を神威へと渡す。
首を傾けながら神威は、妙の行動の意味を目で問いかけた。その視線に、妙はもう一つ息をつく。
「道場に傘を置いたままだったでしょう。夜兎は陽光に弱いんだから、肝心な物を忘れてはだめじゃない」
現に今の神威は、服で覆えない部分を包帯で巻いている。ぱっと見はミイラ人間だ。だからそんな状態で、急に目の前へ飛び降りてこられたことに妙はひどく驚いた。声で誰かわかっていても、心臓に悪い。
多少の怒りを含めて注意をする妙に、神威は目を細めた。白に覆われていない青の目は、どこかいたずらっぽく笑んでいる。
「忘れたわけじゃない。置いて行ったんだ」
「え……?」
思わぬ言葉に妙は戸惑った。そして、玄関で傘を見つけた時のことを思い返す。
最初にこの傘を目にした時、妙は判断に迷った。
忘れたのか、それとも、わざと置いて行ったのか。
妙は、後者をすぐに打ち消した。そんなことをしてもあの男に利点などありはしない。だからやはり、忘れていたのだろう。ちゃっかりしているように見えて、抜けているところもある男だと思っていたのだが。
「……なんのために、そんなことを」
自分の考えが外れていたことに驚き、妙はつい、尋ねる。
神威は完全に笑った。
「簡単だヨ。そうしたら、妙、俺のことを考えずにはいられなくなるだろ?」
たとえば傘を見て、その持ち主のことを思い出したり。
たとえば傘を見て、何をしているんだかとため息をついたり。
たとえば傘を見て、さてこれをどうしようかと考えに耽ったり。
現に今こうして、その傘を持ち主の元へ届けようとしたり。
つらつらと述べられ、返す言葉を失う。そんな妙を面白そうに眺めながら、でも、と神威は付け加えた。
「最後のはあんまりないだろうなあと思ってたよ。俺がどこにいるかなんて、妙にはわからないのに」
言われて妙は気づく。そういえば自分は、この男の所在はまったく知らない。ふらりと道場に現れては、やがていずこかへと去っていくのだ。いつ来るか、どこへ帰るのか、明確なことは何も知らない。知っているのは神威が神楽の兄で、夜兎族であるということ。常人よりも大飯食らいで、強いということ。なぜか妙に興味を持っているということくらいだ。
「ねえ、妙。ソレ、どこに持って行こうとしてたの?」
「さあ……どこなのかしら」
首をかしげながら正直に答えると、神威は目を見開いた後で破顔した。けたけたと笑って、
「やっぱり、妙ってイイよね」
満足げに頷く。それから流れるように、妙を肩に担ぎ上げた。
止める間もなく動きを制され、妙は目を剥く。何するんですかと続けようとした言葉は、嫌な浮遊感にかき消された。
「妙のトコに行くから、傘、落とさないでネ」
やっぱり寛ぐなら包帯取っ払ってからだよねという、うきうきした呟きに、妙は何も告げなくなる。浮遊感で何も告げられないこともあるにはあるが、これを遮るのは無粋な気がした。
(だからって担ぎ上げるのはどうかと思うわ)
どうせなら並んで歩けばいいものを。妙が声をかけられた場所から道場まで、さほど距離はないというのに。
けれどその時間すらも惜しいというのなら、今日くらいは構わないのかも知れない。
妙はそう思うことにして、早々に道場へ辿りついてくれることを願った。
(……吐きそう)
この浮遊感は、慣れるものではないだろう。
今後は担ぎ上げるのを禁止しなければ。妙は固く誓った。