< 見つめる世界の相違 >

 橙色に染まった教室は、昼間とは打って変わって静寂の波に呑まれていた。その場に生じる音といえば、校庭から聞こえる運動部の声だけだ。それも窓を閉めてしまえば、かすかにしか聞こえなくなる。その空間で目を閉じれば、さらなる無音が耳に響いた。誰もいない、自分しかいない。自分すらもこの場にいるのかわからなくなる一瞬。それが生まれる放課後の教室を、妙はひそかに気に入っているらしい。

「だからって眠りこけるのもどうかと思うよ」

 静かな教室に落とされた言葉はひっそりとしていて、机の上で昏々と眠る人物を起こさないような気遣いが見える。そのくせ、かけられる言葉は彼女を起こそうと働きかけるものだった。

「おーい、志村姉ー。こんなとこで寝ると風邪ひくぞー。寝るなら帰ってからにしろや」

 反応はない。それも当たり前だ。わかっている上で、銀八はそれを続けた。最初は机のそばに立ったまま、妙の頭上に声を落とす。しばらく続けた後、おもむろに向かいの席へ座った。妙が伏せている机へ肘をついて、頬杖をついて、志村、とそっと声を出す。出して、それきりだ。今度は呼びかけることなく、妙の顔を眺めた。
 陽に当たってしまわないように、窓に頭を向けて眠る女生徒。白い肌は夕焼け色に変わり、伏せられたまつ毛が色濃い影を生んでいる。口元が腕に隠れていたことだけが惜しい。あの桜色のくちびるが、橙によってどんな妖艶さを帯びるのか見てみたかったのに、と。

(……変態か、俺は)

 眼鏡越しの世界を闇で覆って、またすぐに光を取り戻す。小さく息をついて、頬に添えた手に体重をかけ直した。罪な女だよな、と銀八は思う。それとも愚かなのは、彼女にとらわれた自分自身だろうか。
 銀八と妙では、見る世界がまったく違うのに。ああ今もまた違う世界がここへやってきているのに、なぜ自分はこの場から離れられないのだろうか。
 それは俺が溺れているからだよ、知らねえだろうな志村妙、お前は。

「起きねえと襲うぞ、志村姉」
「襲う前に殺りますぜ、せんせぃ」
「やだねえ、昨今の青少年は野蛮で」

 顔を向けずに銀八は息を吐いた。野蛮にさせてるのはあんたでさぁ。銀八とは正反対に怒気を孕んだ声を発しながら、沖田がこちらへと歩いてくる。正確には妙の元へ。

「そんじゃあ、野蛮にさせる一番の原因をなんとかしてくんねえ、沖田くんよ」
「なんとかできてりゃ、こっちも苦労なんてしねぇや」
「……ごもっとも」

 ちらりと妙を見る沖田の視線を辿って、銀八も頷く。誰かのものになったところで、妙の本質が変わるわけではない。銀八を引きつけるものが、なくなるわけでもない。どうしたって焦がれてしまうのは、銀八にはどうしようもできない。妙は妙として生きているのだから、その生き方を変えられるはずもない。それが銀八でも、たとえ沖田でさえも。誰が悪いというわけでもないのだ。

「ま、でも、見つけたのが俺でよかったな」
「? どういうことでぃ」
「ここにいたのが自制のきかない野郎だったらどうなってたかなあ」
「そんなの。返り討ちじゃねえんですかぃ」

 むっとしたような沖田の表情に笑い、どうかな、と銀八は返す。確かに返り討ちに遭うことは必至だろう、でもそれだけか?

「志村に近づいた、不快感を与えた、でもそれは志村が無防備に寝ているから、お前がいないから、お前がいなかったから。そういう責任、感じなくもねえんじゃねえの?」
「……」
「『放課後の教室、嫌いじゃないの』なんて言葉、……あんま他の奴に聞かせないほうがいいと思うね。俺は」

 女子はともかく、妙を狙う男子生徒はどう思うか。お姫様を守る騎士がいないなら、せめて少しの間でも。お姫様に焦がれた盗人が来ないとも限らないのに。
 言ったところでどうにかできるものでもないだろう。銀八が妙に焦がれてしまうように、沖田が妙の自由を奪えないように。
 わかっていながら、銀八はわざと言葉にする。嫉妬という名の、それは単なる八つ当たりだ。我ながら大人げない。大人げないとわかっているのにやめられない。どうしようもない。ああ悪循環。

「そいつ起こして早く帰れよ。志村だって委員会が終わるのを、……お前を、待ってたんだからな」
「……」
「んじゃな。また明日」

 ゆるり立ち上がって、教室を後にする。怒りのぶつけどころがなくてもどかしい表情がこちらを見ていたが、それは背中で受けるだけで銀八は振り向かなかった。

 銀八があの場にいたのは偶然ではなかった。知っていた、妙が今日の放課後あの教室にいることを。
『放課後の教室、嫌いじゃないの』
 委員会に出ると遅くなるから先に帰れと言った沖田に、妙は待ってると告げた。妙一人になることを危ぶんだ沖田の言葉を遮って、待つ、と言ったのだ。一緒に帰りたいからと、放課後の教室は嫌いじゃないから待つのは苦じゃない、と。偶然そんなことを聞いてしまい、いるのだろうかと来てみたら本当にいてしまい。そんなに一緒に帰りたかったのだろうかと、胸が苦しくなり。やはり自分と妙は見ている世界が違うのだと思い知り。

「八つ当たりしたくもなるっつーの」

 もっと苦しめばいい。手に入らない苦しみを味わえないなら、それ以外の苦しみを。どうしたってこちらに向けられないなら、他で紛らわせるしかないのだ。それがひどく子供じみたものだったとしても。

(それ以外の方法なんて知りません)

 知りたくもありません。

見つめる世界=好きな人