< 下へ、したへ >

 その日はとても暑かった。

「暑いですね、姐さん」
「そうですね」
「こういう日は茶店にでも行って冷たいモンでも口に入れるのが一番じゃねえですか?」
「あら、こうやって木陰の下で涼むのもいいものですよ」

 大木に背を預けて、ねえ、と妙が笑いかける。それを受けて、沖田もまた小さく笑った。

「まあ、たまにならいいかも知れやせん」
「たまに、なの?」
「そうですねぃ……、そばにいるのが姐さんなら、毎日でも飽きないと思いやすよ」
「それは光栄だわ」

 ひそやかに笑う妙を見ながら沖田は、彼女は心からそう思ってくれているのだろうかと考えた。考えて、すぐにそれを打ち消す。そんなことを考えてはいけない気がした。
 視線を妙から外し前方へ向けると、さらさらと流れる川がある。木陰でも十分涼しいのは、こうして水気があるからだ。涼を含んだ風が吹くのも、目の前のこれのおかげなのだろう。

「姐さん」
「なんですか、沖田さん」

 暑いですね、と沖田は同じ言葉を告げた。そうですねと、妙も同じ言葉を返す。それを受けて、今度は川を示した。

「飛び込んでみやせん?」
「……川に?」

 唐突な提案に妙は驚いている。それはそうだ、自分だって急にそんなことを言われれば驚くに決まっている。

「ええ。暑いから、きっと気持ちいいですぜ」
「だからって、こんな格好のまま飛び込めないわ」

 この反応も、当たり前だ。いくら暑いからと言って、隊服のまま、着物のまま飛び込む酔狂な人間は滅多とない。
 そうわかっていながら、沖田は先を続けた。

「そんな細かいこと気にしちゃいけやせん。こういうのは勢いが大事なんでさぁ」
「勢いに任せて後悔するのは嫌です」

 すっぱりと切り返されるが、これも予想範囲内だ。ここで「はい」と言われれば、逆に沖田のほうが驚いてしまう。それはそれで楽しそうだから構わないのだが。

「姐さんは、後悔したことありやすか?」

 不意に、話の内容を変える。話題の転換に、妙がかすかに身じろいだ。

「……したことがない人なんて、いるのかしら」

 問いかけに問いかけるような妙の言に、沖田は苦笑をこぼす。ちゃんと答えてくだせえ、と言うと、妙も苦く笑った。

「あるわ。たくさん」

 簡潔な答えを告げた後で、妙は「沖田さんは?」と返してきた。くるだろうと思っていた問い返しへ、沖田は頷いてみせる。

「たくさんありやす。俺も」
「そう……、そうよね。生きていくって大変ね」
「そうですねぃ」

 まったくだと沖田は思う。この世で生きていくということほど深い業はないだろう。知らずにいたかった感情を、知りたくもなかった心情を、どうして自分は見つけてしまったのか。
 ねえさん、と呟く。小さなその声を妙は拾い、なんですかと先を促した。

「飛び込んでみやせん?」
「……さっき、断ったと思うけれど」
「ええ、だから。さっきとは違う意味で、俺と一緒に」

 おちてみやせんか。

 細い手首を掴んで、先ほどとは違う声音で、本心を織り込んで、懇願するように、ぽつんと告げる。
 妙は反応を返さなかった。言葉の意味を、すぐに理解できないのだろう。それもまた沖田の予想通りだ。軽く見開かれた黒曜の目に、沖田の姿が映っている。いつにない真剣な表情は、自分で笑えそうだった。
 それからどれほど時間が経ったのか、ようやく妙の口が開く。どんな答えが返るのだろうかと思っていたら、

「落ちるだけは嫌よ。たまには浮かび上がらないと、息が切れてしまうわ」

 予想外のものだった。

「……姐さん、それは」

 どういう意味かと、今度は沖田が考える立場になってしまった。沖田の言葉をそのまま捉えたのか、真意を取っての答えなのか。だとしたらそれは、沖田の申し出を受け入れると取っていいのか。
 ぐるぐるぐるぐる、思考が回る。涼しいはずの場所に熱量が増えていく。ここは喜ぶところなのか、それともやはり悲しむべきなのか。
 ひたすら考える沖田に、妙が笑う。

「近藤さんか私か、どちらを取っても後悔するでしょうけど。後悔してもいいと思えるほうを選んでくださいね」

 私から言えるのはそれだけですと、掴まれていないほうの妙の手が、沖田の手に添えられた。それですべての答えが出て、これからの選択肢も浮かび上がる。

「おたえ、さん」

 相手が受け入れてくれるというなら、沖田の心は目の前の女にしか向かなかった。

近藤さんの思い人だから遠慮してたけどちょっと我慢できなかった沖田