< 理性の帳を下ろし続けろ >

 名前を呼ばれるのは当たり前だった。
 隣にいるのも、背中に寄りかかられるのも、至極当然のこと。
 だって僕らはいつでも一緒だ。一時離れたとしても、またすぐ近くあるのが僕ら。
 そこには確かな絆があった。
 いつそれが、違う色を見せたのだろう。
 僕にはわからない。

「新八ー。新八ィ? おいこらダメガネー」
「……ちょっと返事しなかったからって、すぐにダメガネっていうのやめてくれないかな、神楽ちゃん」
「だったらすぐ返事するネ。だからいつまで経っても眼鏡を手放せないアル」
「いや、視力が悪いんだから手放せないのはしょうがないんだよ」

 いつものようなやりとりをしながら、新八は神楽に気づかれないよう息を吐いた。小さな吐息は、ほのかに熱を孕んでいる。頬に集まるはずだったそれを体外へ出したのだから、熱いのも当然だ。

(今日も、隠し通せるといいけど)

 自分の一歩前を行く神楽の背中を見つめながら、新八はもう一度ため息をつく。今度は聞かれても構わない類いのものだったので、敢えて大きめなものを吐いた。

「んだよ、文句あるのかコノヤロー」
「ないよ、ないですありません。ないから首しめるのやめてくんない。ってか、ほんとにやめ、くるしっ」

 ぎゃあぎゃあと騒ぎながら、新八は神楽から目をそらす。互いの距離の近さに気まずさを覚えたからだが、神楽のほうにそんな素振りはまったくなかった。
 当たり前だ、変化をきたしたのは新八だけなのだから。

「なに目ぇそらしてるアルか、反省する気ないだろこんドルオタがァァァ!」
「ぐええええええいやほんとすいまっせん反省してます反省、このと……っ」

 可愛らしい羞恥は、夜兎族の力の前ではなんの意味も見せないようだ。新八は命の危機を本気で感じ取った。慌てて神楽に目を合わせ謝罪の言葉を繰り出したが、途中で声は声として出なくなってしまう。

「おーい、神楽。その辺にしとかねえとマジで死ぬぞー」

 隣室から聞こえた銀時の言葉が、新八を死の淵から救った。

「はあ……」

 九死に一生を得た新八は、本日もう何度目になるかわからないため息をつきながら歩いていた。隣には定春、その横には神楽。買い物がてらの散歩中である。

「ため息なんてどうしたアル」
「いや、別に」
「……新八」
「え?」

 神楽の、声のトーンが落ちた。急な変化に新八は目を剥く。そのまま視線を向けた先の神楽は、真剣な表情をしていた。
 そうして彼女は口を開き、

「お前、最近おかしくないアルか?」

 青い目を新八に当てて言った。

「……な、に、言ってるの。そんなことないよ。何がおかしいって」
「ため息の数が多いネ。それも、私に隠して吐く息のほうが」
「!」
「気づかないとでも思ったカ。夜兎の感覚なめんなヨ」

 思わぬ言葉に緊張が走る。どうしてなんでまさか、新八の心臓がどくどくと鳴り出した。

「何かあるなら全部吐くがヨロシ。うじうじされてると目障りヨ」
「目障りって、神楽ちゃん……。もうちょっと柔らかい言い方はないかな……」

 鳴りやまない鼓動を聞きながらも、新八は表面を繕う。苦い笑いを、弱い微笑みを神楽に向けて、話題をすり替えようと試みた。

「ダメガネにはこれでいいアル。わかったらとっとと吐きな、ボーズ」
「神楽ちゃん」

 定春を越えて神楽が近づき、再び距離が縮む。隠すな新八、と神楽は言った。

「私から逃げられると思うなヨ」
「……!」

 そうして続けられた言葉は、あまりにも衝撃すぎる。新八の心臓が、一瞬、止まったような気がした。

「逃げられるなんて」
「新八?」
「逃げられるなんて、……ッ」

 逃げられるはずなんてあるわけがない。笑えるものなら新八は、鼻で笑っていた。そうできなかったのは、向けるべき相手に顔を見せられなかったからだ。

(とっくに捕まってるんだ神楽ちゃん。僕は、君に)

 変化が訪れたのは、新八の記憶に新しい。いつもの会話、いつもの接触、時に殴り合いすらも平気でするようなじゃれ合いが、平気でいられなくなったのは最近だ。
 新八は神楽を「女の子」として見るようにしか、なれなくなっていた。
 名前を呼ばれるのも言葉を交わすのも隣に並ぶのも、なんでもないちょっとした動作が新八の心を鷲づかみにする。

 可愛いいじらしい触れたい抱きしめたい叶うなら今すぐ自分のものに。

 不埒な考えは日に日に増した。けれどそんな感情をぶつける勇気など、新八にはなかった。あの可憐な少女を、身勝手な思いで汚すわけにはいかない。彼女は「そういうこと」など望んでやしないはずなのだから。
 だから新八は耐える選択をした。好きになってしまったものは仕方がない、簡単に取り消せるほど新八の思いは小さくないのだ。ならば隠すしか道はなかった。秘密にすることで、今の状態を保ち続けることにした。

「新八、どうしたネ。……苦しいヨ」
「……ごめ、かぐらちゃ……」

 触れないで近づかないで隠していたものが出て行ってしまう。
 そんなことはだめだと、新八は懸命に理性を働かせた。

(止めなきゃ、抑えなきゃ、我慢しなきゃ。ごまかしてはぐらかして、これからもまたいつものように)

 一つ深呼吸、神楽をかき抱いていた腕の力を、新八はゆるゆると解いていく。

「ねぶそく、なんだ。ここのところ、お通、ちゃんのシークレットライブが続いてて……。主に深夜だから、寝る時間が減っちゃってさ」
「……このドルオタが……」
「あはは……。うん、それは否定しない」

 体を離すと、冷たい視線が新八に刺さっていた。軽い侮蔑も含んでいるが、それはいつも感じているものと変わらない。そのことに新八は、安心した。

(よかった、今の平穏を壊さないでいられた)

 間違いは起こしてはいけない。身の内にため込みすぎて、いびつな亀裂が入ってしまったとしても。
 何よりも大切に思う彼女を傷つけるような真似だけは、してなるものか。

今の状態に変化を起こしたら何もかもが終わってしまう