< お聞かせしましょう >

 準備室の扉を叩く音がして、銀八は気の抜けた声を出した。誰がこの部屋へ来るかは知っていたので、開かれた扉を振り向くことなく来訪者の名を口にする。

「お前にしちゃ遅かったな、ヅラ」
「ヅラじゃありません、桂です」

 毎度の訂正を飽きることなく続けた桂は、そのまま銀八の座る椅子のそばへと歩を進めた。全員分のです、と言いながら机にプリントの束を乗せる。ごくろーさんと、やはり気の抜けた声で銀八がねぎらった。

「やっぱこういうのは学級委員に任せるべきだな。お前がクソ真面目なおかげで、俺は労せず全員分の提出物を得られるってな」
「こういった仕事を任されるのは構いませんが、その発言は教師としてどうなんですか。銀八先生」
「いんだよ。世の中の教師ってのは、往々にして不真面目極まってんだから」
「先生?」
「あっ違う違う、不真面目じゃねえよ。適度に力を抜いてるの。じゃなきゃ担任なんてしち面倒くせえ仕事、やってらんねえよ。お前に教師の仕事のつらさわかる? わかんねえだろうなあ」

 大仰にため息をつくと、桂は表情を改めた。告げられた内容は今度もまともな言葉選びはされていなかったが、そこに本当の疲労が含まれていることには気づいたのだろう。桂の顔には、気の毒そうな色が見えていた。相変わらず単純で、生真面目の上に馬鹿がつくほどだ。銀八は面白くもなさそうに笑った。

「ところでこれ、お前一人で集めたのか?」
「いえ、志村さんに手伝ってもらいました」

 青年が紡いだ名前にぴくりと反応する。それからほんの少しだけ考えて、口にする言葉を選んだ。

「それにしちゃ、遅かったな。一人だから時間がかかったのかと思ったが」
「図書室で確認作業をした時に少し話し込んだので、それで時間がかかったんです」

 馬鹿正直に答える桂に、銀八は皮肉までこめた自分の発言のほうにこそ馬鹿馬鹿しさを感じた。しかし。桂にプリント収集を頼んだこと、その後でくだんの女生徒に助言を与えたこと、少なくとも自分は助言と思っているが何かが気に障ったのだろうその女生徒からしたたかな鉄拳を受け取ったこと、それらを思い返しながら考えも改める。

(そーいや、まだ口ん中が痛えや。コレぜってー切れてるって)

 鉄の味まで思い出してしまい、銀八は顔をしかめた。突然おかしな顔になった銀八を訝しんだのだろう、桂がどうかしましたかと声をかけてきた。
 殴られた頬が痛み出し、口の中までちりちりと痺れている。思い出したように押し寄せてくる二重苦に、銀八は我慢することを放り投げた。

「志村に手ぇ出したろ」

 単刀直入に、銀八は告げた。選ばれた文章は問いかけではなく、ただ確かめるだけの言葉の並びだ。

「ここに来るまで時間がかかったのは、そのせいだ」

 訪れた沈黙は、銀八の言葉を肯定する働きしか生み出さなかった。やれやれわざわざ助言して拳まで浴びせられたってのにとんだ無駄骨だ。小さく吐いた息には、すべての疲労が含まれていた。

「見てたんですか?」

 さほど時間をかけずに、桂が口を開く。意外と早い立ち直りだと思いながら、いいやと銀八は否定した。単なる勘だよと、長髪の生徒に言う。

「遅いから、なんかあったな。そう思っただけ」
「そうですか」

 この落ち着きようはなんだろう。少しばかり動揺させてみたくなり、銀八は声の調子を変えた。

「仮にも学級委員長が、図書室で不純異性交遊はどうかと思うよー?」
「それについては謝罪しますが、そこまで淫靡なことはしてません。たかだか接吻ぐらい、やっている人は所構わずやっているでしょう。人目を気にする辺り、まだ俺は正常なほうだと思いますが」

 思わぬ反論に、銀八のほうが目を見開いた。まさかこいつがここまで言うとは。うわァ意外すぎる、っていうか接吻て何時代だよ何コレどう対応すべきなの俺? ちょっと頭を抱えたい。

「志村さんに、下心のない男はいない、と言ったらしいですね」
「……あー、あいつ喋っちゃったの」

 俺と志村の内緒話だったのにぃといじけてみせるが、当の本人がいない今、そのていは滑稽なだけだ。

「『桂くんはそんなことなさそうなのに、銀八先生も変なことを言うのね』と」
「あ? なんだ急に」
「志村さんが言っていました。彼女の目に、俺はそういういやらしい人間には見えてなかったようです」
「……そりゃ、複雑だね」

 そうですねと頷く桂の表情は、先ほどからまったく変わっていなかった。始終、至極真面目な顔を形づくっている。

「だから、そんなことはない、と答えたんです。接吻はその時に。入り口からも、受付台からも死角になる位置にいましたから、誰かに見られてはないでしょう」
「そんな自信どっから……、つーか、何から突っ込めばいいのかがわかんねえよ。もういいから帰れ。これ以上は聞きたくない」
「聞かせようにもこれ以上はありません。それでは失礼しました」

 あっさりと桂は準備室を後にした。生々しい実況を、よくもまあ恥じらうことなく言えるものだ。そんな一部分など知りたくもなかった。
 それともわざわざ知らせたのは、牽制のつもりだろうか。余計な忠告を志村にしてくれるな、と。たとえしたところで、乗り越える自信はあるけれども、と。

「……なんだかなぁ」

 やっぱり俺って殴られ損? と、銀八はぽつり思うのだった。

こんなの桂じゃないやいと言われそう