< もしも、の話 >

 もしもはもしもであってもしもでしかない。そう口にすれば、目の前の王女は首をかしげた。ややこしいですわ、と彼女は言う。

「つまり、何が言いたいんですの。大佐」
「おや。ナタリアは賢くないわけでもないでしょうに、私の言わんとしていることがわからないんですか」

 ジェイドが肩をすくめてみせれば、彼の予想通りにナタリアは頬を膨らませた。子供のような怒りの表し方に、苦笑を禁じ得ない。苦い笑いをこぼしたところで、ますます彼女の機嫌を損ねてしまうだけだろう。

「大佐!」
「はいはい、すみませんね。つまりですね、私は仮定の話が大嫌いということです」
「ですが、物事を考える際、さまざまな想定をするのではありませんか」
「可能性の問題です。この世の中に選択は二つしかないのですよ、ナタリア。なるであろうことと、決してならないこと、この二択だけ」

 そしてジェイドが口にする仮定とは、決してならないことを意味したものである。そう告げればナタリアはわずかにうつむいて、しばらく逡巡したのちに頷いた。同意を意味する首肯ではあったが、ジェイドに向けられた表情は複雑そうだ。

「……わたくしには、なんだか無理やりな意見のようにも思えますけれど。確実性を求めるのなら、それも間違いではないのかも知れませんわ。現実にはなり得ないものだから、大佐は『もしも』が嫌いなんですの?」
「ええ、そうですよ。ご理解いただけて何よりです」

 わずかに腰を屈めて、ジェイドはナタリアへ顔を近づけた。目を細めてみせれば、また馬鹿にでもされたと思ったのか、眉根を寄せた表情が作られる。ジェイドはやれやれと、今度はため息を隠さなかった。

「怒らないでください、ナタリア。馬鹿になんてしてませんよ」
「見損なわないでくださいませんか。わたくしは馬鹿にされたなんて思っていませんし、そうされたところで怒るほど狭隘でもありませんわ」
「そうですか。心が広い王女様で何よりです」
「……大佐?」

 わざとらしいほどの恭しさを体現すれば、そこでナタリアの表情が動く。ジェイドの態度が気に障ったのではない、彼女はただ不思議そうにしている。
 ジェイドはその時、「まずい」と思った。自分では冷静なつもりだったはずだが、どこかに動揺が現れてしまったのかも知れないと。入れるべきではなかった箇所へ、力が入ってしまった。

(不覚、迂闊。ああ、しまった)

 ナタリアは賢くないわけではない。王女として育ってきたからか、あるいは本来の性格か。どこかずれたところはあれど、時に彼女はあまりにも鋭すぎた。
 才媛ゆえか、あるいはその純粋さゆえか。まっすぐ、真実に辿りつく。
 なんでもありません、ただのたわごとです。あなたはお気にならさぬように。言おうとして、それを遮られてしまう。

「わたくしが王女であることが、大佐にとって気に障るものですの?」

 それも、正解をもって阻まれるのだから、ジェイドには笑うしかできなかった。

(聡明でいるのは、もっと違う場所であってほしかったのに。このひとは)

 なすりつけたところで、現状は変わらない。そもそもジェイドが失言をしたことが問題なのだから、これは完全な責任転嫁だ。ナタリアは何も悪くない。ただ、核心をついただけで。

「……いいえ、ナタリア。気に障るなんてとんでもありませんよ。人の生まれなど、それこそ誰のせいでもないのですから」
「けれど大佐、だからこそどうしようもできない事実に、人は嘆き悲しむのですわ。あなたも、そうなのではありませんか?」
「ナタリア」

 ジェイドはナタリアへ微笑みかけた。人を食ったような笑顔、微笑み続けられることで不快を覚える、そんな笑い方を貼りつけてみせる。そうすることで、これ以上の話題の発展を避けようとした。これ以上は踏み込むことを許さないと、表情で告げる。
 ナタリアは賢い。鈍いところもあれど、人の感情を読み取れないわけではないのだ。

「大佐、あなたは」
「ナタリア。私が浅はかでした、もうやめましょう」

 言うんじゃなかったと、ジェイドは後悔した。軽い話題ですませるつもりが、どこでどう間違えてしまったのか。個人的な感情を漏らしてしまうことなどないと驕った結果だというなら後で自分を責め立てよう、だから今は解放してほしいと、ジェイドは懇願した。
 けれどナタリアは、離してくれない。明るい緑色の目が、いつも以上にきらめいてジェイドを貫いている。綺麗なその輝きは、ジェイドにはまぶしすぎた。

(言わせないでほしい)

 大の大人が小娘にかき乱されるというのは、面白くない。なんて無様な。

「逃げるおつもりですの、大佐」

 なんて失態。

(言わせないでほしいのに、何も)

 その思いとはうらはらに、くちびるが開いていた。自分の意識しないところで、音にすべきではない言葉が命を持ってしまう。

「……もしもなんて、私は大嫌いです」
「ええ」
「もしもあなたが王女でなければ。……いいえ、現にあなたは王女ではなかった。けれど周りはあなたを王女だと認めている。あなたの行動が、思想が、周りの信頼を得て、ナタリアを完全な王女にした」

 身分ほど、役に立つものはない。
 身分ほど、煩わしいものはない。

「もしもあなたが王女でなければ」

 なんて面倒なものが、この世にはあるのだろう。

「もしもあなたが自国の民に好かれる人間でなければ」

 誰からも見向きされないのなら、掠め取るのは簡単だった。誰にも知られることなく、欲しいものを欲しがれた。

「人格者であるあなたが、今は憎らしいくらいですよ。ナタリア」
「大佐……」
「それを否定したところであなたは、それは自分ではないと言うのでしょう」
「……ええ。民を顧みないわたくしなど、わたくしではありませんわ。今のわたくしを形づくる要因、それが欠けていれば、あなたこそわたくしに目を止めなかったのでは?」

 ナタリアが微笑む。どこか悲しそうに見えるのは、気のせいだろうかとジェイドは思った。

「その通りですよ、ナタリア。だから言ったでしょう、もしもなんてあなたに当てはまらないから、大嫌いだと」

 ナタリアと同じように、ジェイドも微笑んだ。一度くちびるを閉じて、それから改めて開く。

「だからあなたも大嫌いです、ナタリア」

 可能性の見えない、あなたが。
 可能性を生み出そうとしない自分自身が、何より。

「わたくしは、大佐のことは嫌いではありませんわ」

 その返事はジェイドにとって、救いにはならなかった。

実際問題、ジェイドがナタリアをお嫁さんにできるのかなあという疑問から
ジェイドならどうにでもできそうな気がしますが、今回はヘタレにしてみました