< 泣いて、わめいて、その先は >

 世界は広いことを、この年になって初めて知った。自分が何も知らないことを、初めて知った。
 初めてだらけだ。
 あんまり初めてばかりなので、苛立ちが募る。自分の思い通りにいかない現実が、歯がゆくてならない。
 ああ、苛々する苛々する。今日もまた俺は、立ちはだかる現実に意味もなく声を荒げるのだろうか。思い通りにいかなくて泣きわめく、子供のように。

「まあ、ルーク。思い通りにいかなくて泣きわめくのは、子供なら当然のことですわ」
「……は?」

 持て余した苛立ちをつい吐露してしまったのは、ナタリアに対してだった。いけ好かない、自らが望んだわけではない婚約者(かといって婚約を解消できるわけでもない面倒な立場だ)相手に、なぜ、心うちを吐き出してしまったのだろう。
 そんな自問に答えるよりも前に、けろりと返された言葉にルークは目をまたたかせる。ぱちぱちと開閉を繰り返す緑の目を見つめ返し、ナタリアは微笑んだ。

「子供というものは、親の庇護を受ける対象でしょう。時に厳しく、けれど大抵は愛情を持って接されるもの。わかりやすく言えば、甘やかされる生き物ですわ。だから親のいる世界から離れれば、すべて自分の思い通りにいくわけでないことを思い知らされるのです」

 微笑みながら、ナタリアはとうとうと述べる。流暢な説明を、その時ルークは口を挿むこともせず黙って聞いていた。

「いつもは叶ったことが、違う場所では叶わない。それはなぜかがわからない、わからなくて、けれど思い通りにいかないことだけはわかる。なぜ、どうして、と疑問に思ってもそれが常識なのだと教えられて……知らなかった未知の領域に驚いてしまう」

 驚いて、でもそんなことはすぐに受け入れられなくて。
 だから苛立ちが生じる。わけがわからなくて、悔しくて、できることは泣きわめくこと。

「泣いてわめくのは、子供の特権です。子供だから、何も知らなかったから許されること。泣きわめくのは悪いことではありません、ルーク。その経験を積むことで、少しずつ成長していけるのですから」

 だからルークが抱えている悩みも、悪いものではないとナタリアは言った。最後まで絶やすことのなかった微笑みを正面から向けられ、ルークはたじろぐ。一つしか年が違わないはずなのに、大人に諭される子供のように感じてしまった。

「ずっと屋敷から出られなかったから知らないだけで、俺は子供なんかじゃねえ」

 感じたまま、ルークはその憤りをナタリアにぶつける。その発言こそ子供っぽさを如実に表しているものとしか思えなかったが、吐き出した以上、戻すことはできない。
 対するナタリアは静かだった。微笑みは消えたが、かといって怒りを感じているわけでもない。ただ静かに、受け答える。

「そう、……そうですわね。けれどルーク、知らないことと、知ろうとしなかったことは違いますわよ」
「!」
「あなたが置かれていた環境でも、世情や一般常識を知ろうと思えばできたはずです。それをしなかったあなたが、知らなかったと主張したところで、誰もが納得すると思いますの?」

 静かな言葉が、却ってルークに打撃を与えた。何か鋭いものでぐさりと貫かれたような心地に、ルークは返す言葉を失う。
 ナタリアが口を閉じルークが口を噤んだことで、その場に沈黙が落ちた。
 けれど静寂はわずかな時間で、すぐにナタリアの笑い声がルークの耳を打つ。顔を上げると、彼女はひどくおかしそうに笑っていた。その様相に、ルークは驚きを隠せない。

「ナタリア?」
「……すっ、すみません、ルーク。そこまでしょんぼりするなんて思わなくて……」

 語尾がナタリアの笑い声でかき消えた。そこまで笑われるなど思ってもみなかったルークは、馬鹿にされたような気になり眉根を寄せる。

「誰がしょんぼりなんてしてるかっ」
「すみ、ませ……」
「…………。いいから、とりあえず笑うのをやめろ。気分悪い」

 そっぽを向くと、ややあって笑い声が止まった。ちらっと横目にナタリアを見ると、涙で滲んだ顔が視界に入る。泣くほど笑うようなことだったかと、ますます気分は悪いものになっていく。

「ルーク」
「……んだよ」
「気分を害してしまって、すみません。でも、……懐かしいなと、思ったのです」
「? ……なつかしい、って」

 どういうことだろうと、ルークは体ごとナタリアへ向ける。ナタリアはそっと微笑んで、それから微笑を苦笑に変えた。わたくし自身に、と彼女は言う。

「わたくしも少し前、ルークのように何も知らない子供でした。今でこそ他国へ赴いてはいますが、ずっと昔は外に出ることなどなかったんです」

 覚えていませんか、とナタリアは口にしたが、すぐに首を振ってなんでもありませんと告げた言葉をなかったことにした。しかしルークは、その言葉を拾い上げる。

「俺は、そんなナタリア、……初めて知った」
「ルーク」
「お前も、子供っぽく泣きわめいたことあんのか?」
「……ええ。もしかしたらルークよりもひどかったかも知れませんわ。わたくしは、女の子でしたもの」

 ナタリアが消そうとした言葉を拾い上げたことに驚きながらも、拾うという選択をしたルークに対して彼女はどこか嬉しそうだった。嬉しそうに、言葉を続ける。ルークもまたその言葉に応えた。

「そうだな。女ってのは何かと、かしましいもんな」
「かしましいは言いすぎですわ。殿方よりも声音が高いと言ってくださいまし」
「表現が違うだけで、どっちも同じだろ」
「どうしてルークはそう、デリカシーがありませんの。女性に対して、もっと紳士的になるべきですわ」

 先ほどまでの柔らかい微笑などどこへいったのか、ナタリアはいつものように腰に手を当て居丈高に告げる。その上から目線をどうにかしてくれと思いながら、ルークは、

「っ、はは」

 相好を崩した。

「! ……ふふ」

 ルークの破顔に、ナタリアも口元を綻ばせる。そうしてその場には、二つの笑い声が弾け合った。

 ねえルーク、わたくしも子供のように泣きわめいていた時期がありました。今でこそそんなことはありませんが、けれどわたくしにはまだ子供の部分がありますわ。
 で、俺は子供そのものってか。
 混ぜ返さないでくださいませ! わたくしが言いたいのはですね、ルーク。
 なんだよ。

「共に、成長していきましょう」

 昔の約束を思い出してはほしいけれど、たとえ記憶がなくてもルークはルークですわ。ですから「ルーク」。わたくしと共に、歩んでほしいのです。

 そう告げたナタリアの目は、とても真摯なものだった。強くて、けれど拒まれることに怯えている目。いつもは爛々としたものが弱々しさを帯びているなど、ルークは初めて知った。
 ナタリアのことに関して「はじめて」知るのは、今日はこれで二度目だ。そんなことを考えながら、ルークもナタリアを見つめ返した。

「ああ、ナタリア。いっしょに……」

 一緒に、歩いていこう。

一般常識にいろいろ衝撃なルークと過去(※捏造)の自分を思い出したナタリアとか
長髪ルークな割には素直すぎるような気がしなくもないんですが、長髪ルークも素直な部分はきっとあるはず
ルークの軟禁状態がどんなものかよくわかってないので、世情云々は間違ってる可能性大です