< 背に広がる熱 >

 先ほどから室内は沈黙に支配されていた。あまりにも静かすぎてうすら寒い。このまま黙っているのにも耐え切れなくなったディムロスは、意を決したように口を開いた。

「……なあ、ハロルド」
「何よ」
「いつまでこの状態でいればいいんだ?」

 多少ためらった物言いに、ハロルドが少し笑った気がする。きっと気のせいではないだろう、背中の動きでそれはよくわかるのだ。

「照れてんのね、ディムロス」
「おっ、俺は照れてなど……」
「じゃあ別にこのままでも構わないっしょ? こうしてたからって、困るようなことがあるわけでもなし」
「ぐ……」

 言いくるめられてしまいディムロスは唸った。そしてすぐに後悔する。ハロルド相手に虚勢など張るべきではなかった。しかし「照れてない」と言ってしまった以上、それをすぐに覆すのもプライドが許さない。そんなちっぽけな矜持など捨て去ったほうがいいのだろうが、なんとなく悔しいのだ。
 そして結局、ディムロスはそのままの状態を続けるしかなかった。

(しかし、なんでまたこんなことになっているんだ……?)

 カーレルから預かっていた書類を、ハロルドの部屋に届けたところまではよかったのだ。用事を終えたディムロスはそのまま私室に戻るはずだった。だがそれは、ハロルドが呼び止めさえしなければ、の話になる。
『ちょっとそこに座って。ああ、座る時はドアのほうに向かってね。私に背中を向ける感じでよろしく』
 唐突な要求は、ハロルドにとってはいつものことだ。また何かの実験台にされるのかと危ぶんだが、それもまた日常茶飯ということで、特に反論するでもなくディムロスはハロルドの言うままに従っていた。まったくもって「いつものこと」とは恐ろしい。
 しかし予想に反して、ハロルドはディムロスに投薬したり、液体をかけたり等々はしなかった。代わりに、ディムロスと同じように腰を下ろす。扉のほうを向いていたせいで見えることはなかったが、それは気配で容易に感じ取れた。
 そして彼女は、そのままディムロスの背中に自分の背中を合わせたのだ。
 ディムロスは驚かなかったわけではない。むしろ一驚を喫した。それはもう、飛び上らんほどだ。持ち前の自制心がそれを抑えたのだ、この時ほど自分を褒めたいと思ったことはないかも知れない。
 ハロルドは何を言うでもなく、ディムロスに背中を合わせていた。言葉を発することなく、もちろんディムロスも声を発せられる状態ではない。どちらも喋らないのだから室内には沈黙が訪れて、先ほどディムロスが声を発するまで静かなままだったのだ。
 そして再び静寂に包まれる。
 ディムロスは困り果てた。
 ハロルドの真意がわからない。彼女はいったい何をしたいというのだろう。それともこれも実験の一種なのだろうか。どんな実験だ。

(背中が温かい)

 互いのそれを合わせているとよくわかる。ハロルドの背中が、ディムロスのものよりも小さなこと。彼女の体温が背中を通じてディムロスに教えていること。とくりとくりと一定の速度を保っているのがハロルドの鼓動だということ。そして逆に、ディムロスの心音が次第に速まっているということ。

(どういうつもりなんだ)

 思わぬ事態にも冷静でいられる自信はある。しかしどうしたことか、彼女の前ではそんなものなど初めからなかったようではないか。かき乱される、落ち着けない。心臓の音が、とてもうるさい。

「あんたの背中って」
「……!?」

 くるくる回る思考に飛び込んできた声が、思いも寄らないほどの驚きをディムロスに与えた。どうにか耐えるも、かすかに体を張らせてしまったことがハロルドに気づかれたかも知れない。しかし彼女はそんなことお構いなしのように先を続けた。

「あったかいわね」
「……お前のもな」

 あまりにも淡々としたハロルドの口調に、焦っている自分が馬鹿らしく思える。落ち着かない原因の彼女の声で落着きを取り戻せるなど矛盾した話だと感じながら、ディムロスも言葉を返した。
 途端に背中が揺れる。ハロルドが笑ったのだとわかった。

「ねえ、ディムロス」
「なんだ」
「しばらくこうしててもいい?」
「……さっきからしているだろう」

 今さら何を、と、返す。それもそうねとハロルドはやはり笑っていた。
 揺れていた背中がまた強く合わさり、今度は軽い重みも感じる。ハロルドが体重をかけたのだろう、けれどそれは「重い」と感じるほどではなかった。自分と比べると、ハロルドはこんなにも小さいのかと頭の端で認識する。気の触れた科学者だの、尋常じゃない科学者だの、天才というより奇人だと言われるハロルドではあるが(否定もできないが)、それでも彼女は女性なのだ。男である自分より弱い存在。自分が守るべき存在。

(守るべき、か。……そうじゃない、俺が守りたいと思っているだけなんだろうな)

 素直に言うことはできない思い。きっとハロルドは知らない思い。自分が何よりも守りたいと思っているのが、他ならぬハロルドだということ。今のこの状態が、本当は何よりも喜ばしいと思っていることなど。
 知り得はしないのだろう。

「あんたの背中はあったかいわね」

 同じ言葉をハロルドが繰り返した。お前もな、とディムロスも繰り返す。

「私、あんたとこうするの好きだわ」
「そうか。じゃあ、俺以外にしてくれるな」
「……そうね。考えてあげてもいいわ」

 さらりと投げかけた言葉を、ハロルドはしばしの沈黙の後で受け取った。背中の熱が上がったような気がして、ディムロスは少しだけ目を見開く。

 ああ、もしかしたら。

 もしかしたら、ハロルドも自分とたがわない思いを抱いているのかも知れない。この状態にしても、彼女からの発言によるものだ。可能性はどのようにも取れる。
 これは単なる自惚れだろうか。

(そうじゃないことを祈るばかりだが)

 今はただ、背中に広がるぬくもりだけを感じていよう。