< 髪に触れる >

 ちち、という小鳥の鳴き声がひどく耳を打った気がして、いつもなら滅多に向けない意識を音の方向へと当てる。鳥が鳴き、鳴きながらその鳥は女性の肩へと、今まさに舞い降りようとしていたところだった。

(フィリア……)

 宿屋にいないと思っていた人物は、どうやらここで時間を過ごしていたらしい。他人のことだから別にどうでもいいのだが、普段と違う姿に思わず足を止めた。
 フィリアは髪を梳いていた。いつもの緩やかなみつあみは解かれ、背に肩に、若草色が流れている。いつもと少しだけ違う雰囲気に、だからリオンは立ち止まってしまったのだと理由をこじつけた。
 そうでなければいけない。「リオン・マグナス」が他者に気を引かれたなど、あってはならないのだ。
 その思考に急き立てられるように、リオンは早くこの場から立ち去ろうと歩き出した。しかしそれを遮るささやかな音の連なり。

 ちち。

 傍らの人間にかけるような鳴き声が、フィリアの視線をリオンへと移してしまった。

「リオンさん?」
「……」

 背を向けたままリオンは小さく舌打ちした。それはフィリアに、というよりも、足を止めるという選択をしてしまった自分に対してのものだ。

「リオンさんもお散歩ですか? 今日は陽気がいいですから、よいお散歩日和だと思いますわ」

 リオンの苛立ちに気づくことのないフィリアは、いつものように穏やかな声をかけた。対するリオンは黙り込んだままだ。

「あの……?」

 言葉を発しようとしないリオンをフィリアは不思議がる。おそらく首をかしげているであろう彼女を思いながら、リオンは大きくため息をついた。

「別に散歩というつもりじゃない。ただ、歩いていただけだ」
「ふふ。そうですか」
「何がおかしい」
「いいえ。外を歩いているだけで散歩と決めるつけるものではないと、そう思っただけですわ」
「……変なことを考える」

 いまいち意味がわからず投げやりに吐いた言葉だったが、それでもフィリアは微笑み続けている。
 わからない。本当にわからない女だ。
 ごちゃごちゃと考えている自分のほうが馬鹿みたいな気がして、リオンは思考することをやめた。それから方向転換し、フィリアへと足を進める。

「髪をほどいているのは初めて見るな」
「あ、申し訳ありません。お見苦しいところを」

 慌てて髪をまとめようとするフィリアを、リオンは咄嗟に制した。今度はフィリアの見開いた目とかち合ってしまい、居心地の悪さを覚える。

「……別に、そのままでいい。今は自由な時間だ。何をしようと構うことはない」
「リオンさん……」

 らしくない言葉が出てきたことにリオンは自分で驚いた。しかし出てしまった言葉はなかったことにはならないので、今さらどうしようもできない。

(……もういい)

 取り繕う気も起きず、リオンは開き直ることにした。悪いのはいつもと違う雰囲気を携えたフィリアのほうなのだと、卑怯ながらも人のせいにして。

「触れてもいいか」
「え?」
「お前の髪。日が弾けてきらきらしている。……さっきから、気になっていたんだ」

 らしくない、らしくない。歯の浮くような台詞をよく言えるものだなと自分に投げかけながら、フィリアの答えを待つ。

「あ、あの、その」
「だめならいいが」
「いえっ、か、構い、ませんわ。……どうぞ」

 わたくしのでよろしければ、とご丁寧に付け加えてフィリアは髪から手を離した。入れ代わりに、リオンが若草色へと手を伸ばす。
 さらりとした。思った通り、柔らかな手触りで、少しだけ気分がいい。

「綺麗な髪だな」
「…………ありがとう、ございます」

 うつむいたフィリアの顔は真っ赤で、それが余計に髪の色を引き立たせているようにも見えた。ますます綺麗だな、と素直にそう思う。
 ちち、という小鳥の鳴き声が再び耳を打って、それからそちらへと目を向けた。フィリアの肩で羽を休めている小さな瑠璃。くりくりとした黒目がなぜか笑っているように見えて、リオンは心持ち眉根を寄せる。

(一番の原因は、お前だ)

 それからまた責任をなすりつけて、けれど、お前のおかげでもあるのかも知れないという、自分でもよくわからない言葉も付け加えた。
 小鳥の声が聞こえたせいで、いつもと違う彼女を見た。ほんの少し驚いたから、ほんの少しだけ興味を持ったんだ。だからこれは、惹かれている、なんて言葉に当てはまらない。