< 苛立ちの理由 >

 顔と髪は女の命だと、街を練り歩く女たちの会話を聞いたことがあるように思う。取り立てて覚えておくことでもなかったというのに、なぜかこの時それを思い出した。

「フィリア」

 眉根を寄せて、不機嫌そうに彼女の名を呼ぶ。はい、と慌ててリオンへ意識を向けるフィリアに、リオンの顔はまた深くしかめられた。

(どうしてこいつは……)

 苛々と、不満はたまっていくばかりだ。リオン自身どうしてこんなに苛ついているのか、正直ちゃんとわかっていなかったりする。
 とにかく苛つく、腹が立つ。なぜフィリアは、気づかないのか。

「面倒な女だな、お前は」
「え、あの、リオンさん?」

 何も理解できていないフィリアは、ただただ困惑している。リオンが苛ついている理由を言っていない以上、それは普通の反応かも知れない。しかし原因は、フィリア自身に及んでいることなのだ。それをどうして他人が気づいて、本人はまったくの無関心なのかがリオンにはわからなかった。

「おい、アトワイトを貸せ」
「何よ、いきなり」
「いいから、貸せ。すぐにだ」

 電撃をくらいたいのかと、リオンはすぐそばにいたルーティへ告げる。途端に嫌そうな顔をしながら、しかし電撃を浴びるのはご免だと、ルーティはしぶしぶ傍らの剣をリオンに渡した。

『どうしたんですか、坊ちゃん』
「別に」
『別にじゃないわよ、私に何か用があるんでしょう』

 シャルティエとアトワイトの呼びかけにも、リオンはまともな返答をしない。ただ流れるようにアトワイトを構え、切っ先をフィリアに向ける。
 驚いたのはフィリアよりも、リオン以外の人間だった。

「ちょっと、リオン!?」
『坊ちゃん!?』
『何をするの!』
「黙っていろ」

 周りの声を遮るリオンにフィリアは息を呑んだだけで、何も言葉を発しようとしない。怯えているのだろうか、けれど彼女から恐怖は感じられなかった。ただ、リオンの行いを見すえようとしている。薄紫の目は静かだった。

(この目は、苦手だな)

 「いつか」、この目と対峙する日がくるのだろうかと、そんな考えが頭をよぎる。すぐさまそれを振り払い、白刃をフィリアの頬に当てた。
 ぽつりと、癒しの言葉を紡ぐ。
 驚きの声を上げたのは、やはりフィリアではなくルーティたちだった。

「……リオンさん」

 頬に手を当てて、何かが治されたのだとフィリアは気づく。知らぬうちに怪我でもしていたのだろうかと、リオンを見やった。

「目障りなものを見せるな。……女だろう、お前は」

 吐き捨てるように告げるが、フィリアは表情を緩めただけだ。ありがとうございますと、謝辞を述べる。その言葉にも苛立ちが募り、ふいと顔をそむけた。

「返す」
「え、あ、うん……」

 放るようにアトワイトをルーティの手へ戻す。傷を治す行為によほど驚いたのか対応が大人しかったが、すぐに「投げないでよ!」とルーティは怒鳴った。
 用事はすんだとばかりに、リオンはその場を後にしようとした。ちらりとフィリアを見やると、彼女はまだ頬に手を当てている。リオンと目が合うと、フィリアが笑いかけた。

「リオンさんは、このことをおっしゃりたかったのですね」
「……」
「気づかないままで、申し訳ありませんでした」
「鈍い、女だ」
「はい。よく言われますわ」

 微笑み続けるフィリアが、リオンには理解できない。苛立ちを解消したくて傷を癒しはしたが、あれだけ罵られたも同然というのに、なぜそんなに笑うことができるのか。

(なぜ僕は、こんなに苛ついているんだ)

 苛立ちを解消したければ、その場を立ち去ってもよかったはずなのだ。そのことに今さら気づいて、リオンはますます気分が悪くなった。
 フィリアの視線から逃れるように背を向ける。気遣わしげなシャルティエの声は、聞こえないふりをした。

 フィリアの頬のそれは、小さなちいさな傷だった。
 けれど、顔は女の命だと、たとえ小さな傷でもついてるのは悲しいと、ずいぶんくだらない内容だったそれを思い出した。なぜ急にそんなことをと思いながらも、フィリアもそうなのだろうかと、ふと考える。
 気がついた時には苛立ちを覚え、苛立ったまま治していた。

(なぜだ?)

 どうして自分はこんな行動を取ってしまったのだろう。フィリア自身が気づいていないような傷に、過剰な反応を見せて。
 傷がつくのが嫌だったのだろうか、清らかという言葉が何よりも似合いそうな彼女に。

「……馬鹿な」

 そんなわけなどあるはずないと、リオンはぽつりと吐き捨てた。