< 希求 >
すれ違いざまに目にしたものがあまりにも衝撃で、思わず言葉を発していた。名を呼ばれた相手がぴたりと足を止める。ただでさえ頼りない背中が、よりいっそう弱々しく見えた。
「……なん、でしょう。リオンさん」
返された言葉は掠れたもので、もしかしなくともフィリアは泣いているのかも知れないとリオンは思った。おそらく外れてはいないだろう予想に、声を詰まらせる。
しかしそれもわずかな時間で、リオンは努めて平静な声を出していた。彼は、動揺を隠すことに慣れている。
「あまり走るな。お前の場合、どこであろうと転びかねんからな」
「それは……すみ、ません」
「……それだけだ。つまらんことで呼び止めたな」
いいえ、とフィリアが力なく返した。そして彼女は、リオンの忠告を聞いていたにもかかわらず走り出す。続く短い悲鳴に、背を向けたリオンは、再び振り返らざるを得なかった。
「お前は他の奴らと違って、人の話くらい聞く人間だと思っていたが」
「す、すみません……」
大仰にため息をつきながらフィリアの元へと足を運んだリオンは、ぐちりと一つ文句を言う。面目がないのだろうか、フィリアは顔をうつむけたまま、ひたすら謝っている。リオンはもう一度ため息をつき、フィリアの顎に指をかけた。
「……っ」
ぴくりと震えた肩を気にも止めず、リオンはそのまま指を上げる。フィリアの顔は強制的に上向かせられ、その表情は驚愕に満ちていた。反動でこぼれた雫が頬を伝って、リオンの指にそろりと触れる。冷たいような温かいような不安定な熱を、それは持っていた。
「リ、リオン、さ……」
「転んだくらいで泣くな。弱いにも程があるぞ」
「……え?」
フィリアの目が丸くなる。まるで見当違いなことを言われたという反応を見せられたが、リオンはそれこそ望んでいたものだとそのまま言葉を続けた。
「痛みがあるはずだ。服で覆われているとはいえ、痛覚は完全に防げるわけではないからな。お前は傷を負うことに慣れていない。だが、かといってすぐに泣くこともないだろう」
「リオンさん、あの」
「転んだんだろう? だから、痛い」
違うかと言い聞かせるように、リオンは言葉を重ねた。やがて察したのか、フィリアもゆるゆると頷く。はい、と呟き、痛いですと続ける。
リオンは立ち上がった。つられるように体を起こそうとしたフィリアに手を差し伸べ、手当てぐらいしてやると部屋へ招く。時間を置かず、リオンの手にフィリアの手が重なった。
傷は大したものではなかった。膝が少し赤くなっているだけで出血もない。それでも手当てをと言った手前、リオンはフィリアの膝を冷やすことにした。
濡れたタオルを膝に当てている間、会話らしい会話はなかった。フィリアの足をさらしてしまうことをリオンが最初に詫びたくらいで、それ以降は静寂がその場を支配している。
「痛むか」
ぽつりと呟いたのは、耳に痛いほどの静けさに耐え切れなくなったリオンだった。音に反応するように膝が揺れる。その後で、大丈夫です、という言葉が返ってきた。
「……痛ければ泣け」
「え……」
「今日くらいは構わん。お前は我慢しすぎる嫌いもあるから、たまには我儘を言ってもいい」
「リオン、さん?」
「痛いなら、痛いと言え。泣いてもいい。……我慢はするな」
フィリアが息を呑んだのがわかる。リオンは膝に当てていたタオルを外し、裾を下ろした。そのまま嗚咽をこぼすフィリアに腕を伸ばし、ささやく。
「来い」
弾けるように、フィリアがリオンに身を寄せた。
野鳥の鳴き声が、寂しげに響いている。どこで鳴いているんだろうと、そんなことを考えながら散策していたスタンの前にリオンが現れた。
目の前の厳しい少年の表情に、スタンの口元がゆるりと上げられた。険しい顔の意味合いを知っているという様子に、リオンはますます顔をしかめる。
「何をした」
リオンは多くを語らず、ただそれだけを問う。スタンは笑みを湛えたまま、簡潔な言葉を落とした。
「キスしたよ」
一段と増した殺気に目元をやわらげたスタンは、リオンが問いを重ねるよりも早く口を開く。
「俺さ、近いうちにリオンと剣を交える日を迎えるような気がしてるんだ」
「……なんだと?」
「ハーメンツの比にならないほど生死をかけたような、さ」
返答に詰まったリオンの様子にちらりと笑って、スタンが先を続けた。
「そうなったら、フィリアは悲しむだろうね。最近のリオンとフィリア、仲いいからさ。それはもう、見てるのが嫌になるくらい」
「……」
「断ち切るつもりなら、最初から繋がないでほしいんだよね。見てると本当、……苛々する」
嫌がらせのつもりか、と、リオンがようやく声を発する。まさか、と一笑に付したスタンは、純粋な気持ちだよと、のたまった。
「フィリアが好きなんだ。だから俺の気持ちを気づかせたかった。多少、やり方は強引になっちゃったけどね。ああでも、謝るつもりはないよ。そうするくらいなら最初からやらない」
「貴様……っ」
「本当はね、何もしないつもりだったんだよ。フィリアが幸せならそれでいいと思ってた。けど、リオンと対峙する予感が消えない以上、黙ったままっていうのが耐えられなかったんだ」
悲しむ姿なんて見たくないんだよ、でもいずれ悲しむ姿を見てしまうならその前に奪いたかった。伝えたかった、自分という人間がいることを、知ってほしかった。
「そうだね、もしかしたらこれは嫌がらせかも知れない」
歪んだ微笑みでスタンが述べる。リオンはくちびるを噛みしめた。
言い返せるならやってみろ、と、青い目が語っている。語れるものか、と、紫紺の目が苦しげに揺らいだ。
リオンは背を向ける。逃げるの、とスタンの声が追いかけてきたが、振り向かなかった。
フィリアが声を押し殺して泣く間、リオンはフィリアを抱きしめていた。何も聞かず、何も言わず、ただ胸の中の存在を確かめる。
何があったかなど見ればすぐにわかることだ。それが誰によるものかも見当はついていた。だからリオンは何も聞かなかった。フィリアの傷口を開くような真似はしたくなかったし、単に聞きたくなかったということもある。
ただ許せなかった。
(許せない? 馬鹿な話だ。あいつの言う通り、僕はフィリアを……悲しませるだけの存在なのに)
なじられるべきは、自分なのに。一時の安らぎに身を任せた愚かな人間は、誰でもない自分だというのに。
(それでも僕は、離れられない)
求めてしまう、ただ一人の存在を。
「のたまう」はリオンからスタンへの、皮肉のつもりで使ってます