< 花と祈りを捧げましょう >

 満月の夜、森の奧にある泉に一輪の花と祈りを捧げると、願い事が叶うらしい。
 地図にも載らないような小さな村にいる一人の少女が口にした、昔からある言い伝えだそうだ。
 本当か嘘かもわからない、あやふやな話をリオンは一笑に付した。馬鹿らしい、その一言に少女が怒る。ばらかしくなんてない、いっしょけんめいいのれば、かならずねがいはかなうもの。実に幼い子供らしい根拠のない断言は、リオンにとってはやはり「馬鹿らしい」以外のものには映らなかった。
 しかし、リオンの隣で同じように話を聞いていたフィリアは違った。素敵なお話ですね、と彼女は言い、リオンとは反対に少女の喜悦を引き出した。

「お前、ああいったものをくだらないとは思わないのか」

 少女と別れて村を散策している途中で、リオンはぽつりと言葉をこぼす。返ってくるだろう反応はわかりきっていたが、リオンの口は自然と開いていた。

「そんなことはありませんわ。人が何かを信じるということは、とても尊いことです」

 神という不明瞭な存在を尊ぶ職種に就く人間に同意を求めようということ自体、無駄なことだというのに。予想通りの答えを返すフィリアと、わざわざ質問をしてしまった自分にリオンはため息をついた。

「……リオンさんには、何か叶えたいこととかありませんか?」
「それをお前に言う義理はない」
「そ、そうですか。そうですね、すみません」
「それに、僕は僕の力で願いを叶える。他に頼むようなことなど、誰がするか」

 吐き捨てるようなリオンの発言にフィリアは柳眉を下げたが、すぐに表情を緩めた。柔らかい微笑みにリオンはたじろぐ。そんな反応は予想していない。

「なん、だ、その表情」
「ご自分の力で夢を実現するという気持ちは、とても大事なことですわ。リオンさんは、素敵な心をお持ちなんですね」

 なんだその感想は。先ほどと同じように吐き捨てようとしたが、言葉はうまく音になってはくれなかった。気まずさから顔をそむける。それでもフィリアが微笑を消すことはなかった。

 その村に訪れたのがいつだったのかは、もう遠い記憶の中だ。それでも、その時の会話は今でもよく覚えている。忘れるはずもない。それからしばらくした後の出来事が、決して忘れられなくしている。それがいいことなのか悪いことなのか、リオンには決めかねた。
 ただ、忘れられない。ふとした瞬間に思い出してしまう。映像が、消えない。消えてくれない。
『願い事が、あるんです』
 思い詰めたようなフィリアの声が、鮮明に蘇る。
『どうしても叶えたくて』
 興味を引かれた。無欲なほうだと思っていた人間が願う、それほどまでの望みとはいったいなんだろうと。相手がフィリアだったからこそそう感じたのか、当時のリオンにはわからなかったけれど。
 森の奧には確かに泉があった。そのそばには、そこだけに咲くのか見たことのない花が幾輪か並んでいる。その中の一輪に謝罪を告げた後、フィリアはその花を抜き取った。
 リオンはフィリアの行動を始終、観察していた。邪魔かも知れないとも思ったが、フィリアは何も言わなかったし、たとえ言われたところで離れるつもりもなかった。
 ぽちゃん、と花が泉に落ちる。それと同時にフィリアは目を閉じて手を組んだ。声は発さず、一心に祈る。月光が見せる幻か、祈るフィリアの姿はどこか神々しく見えた。
 祈りの時間は長かったようにも、短かったようにも思う。フィリアの祈りは見ているほうにも威圧を感じるほど強く、けれど、終わる時はふっつりと軽かった。
 何を願ったんだ、という質問は、我ながらぶしつけだったと思う。しかし聞かずにはいられない。答えてくれるのだろうかというリオンの不安を覆すように、
『大切な方の、無事を』
 と、フィリアは答えた。
 あれはすべて、偶然の上に成り立ったことだった。
 たまたまあの村を見つけなければ。
 あの村にいた少女が、買い出しに出たリオンとフィリアに話しかけなければ。
 あの夜が満月でなければ。
 リオンが深夜に目覚めることがなければ、単身で村から出ようとするフィリアを見つけていなければ。
 聞くことができなかった願い、見ることのできなかった表情、共有できることのなかった記憶。
 フィリアの願いが誰に対するものだったのか、リオンは知らない。けれど、フィリアが望んだ願いを、正確ではないとはいえ耳にすることができた。フィリアは自分に話してくれた、リオンはそれで満足だった。

(十分、なんだ)

 過ぎる欲は自らを滅ぼすと知っているはずなのに、なぜ欲はとどまることを知らないのだろう。

「ジューダス!」

 呼び声にぴくりと肩を揺らす。かつて敵対した男たちの子供が自分を呼んでいる。行かなければ、いつものように冷静を携えて。
 大丈夫ですか坊ちゃん、と小さな気遣いが聞こえる。心配するなと小さく答え、ジューダスの名をまとったリオンは少年の元へと歩を進めた。

「あのねジューダス、フィリアさんがお茶を淹れてくれたんだ。ジューダスも一緒に飲もうよ。手作りのお菓子もあるんだって!」
「僕はいい。お前たちだけで馳走になってこい」
「相手のもてなしを受けるのも、礼儀の一つだと思うけどな」
「そうよ、ジューダス。フィリアさんに失礼だわ」
「……甘い物は、苦手なんだ。今は腹の調子もよくない。すまないが、遠慮させてもらいたいんだ」

 わざと表情を暗くさせると、三人はそれじゃあ仕方ないと、リオンを解放した。こうも騙されやすくて大丈夫なのかと不安になったが、今後は自分もいるのだから別にいいかと自己解決する。

「それじゃあ、また後でねジューダス。ここで待ち合わせよう」
「ああ。……そんな顔するな、勝手に一人で行ったりしない」
「うん、信じてるからね!」

 行ってきます、と三人が並んで神殿内へと入っていく。それを見送りながら、その先へと意識を向けた。三人よりもずっと先、神殿内の、彼女の私室へと、思いを飛ばすように。

(……フィリア)

 ぽつりと思う。
『お前は誰の無事を祈った?』
 あの時言えなかった言葉、聞けなかったこと。
『あれほどの強い願いを、誰のために祈ったんだ』
 リオンが馬鹿にした言い伝え、今もやはり信じることのない、あの村の伝承。けれど、それに縋るフィリアのことだけは馬鹿にしたくなかった。
 ただ、祈りを捧げられる相手が羨ましいとだけ、感じた。

「お前が……」

 ここはストレイライズ大神殿。地図にも載らないようなあの村ではない。泉も一輪の花もなく、満月の夜ですらない。そもそも自分は馬鹿にした。そんな自分が祈るなど、矛盾しているにも程がある。
 なのに、望まずにはいられない。フィリアへぶしつけな質問をした時のように、黙っていることは苦痛だった。

「お前が無事を祈った相手が、僕であればいいのに」

 そうあることを願ってやまない。

ジューダスの回想ですが、この時の気持ちはリオンのままです(表記が「リオン」なのもわざと)