< 気が気でないから 前編 >

 日の下では明るい緑も、夜の帳が下りればたちまち深い緑に変わる。単なる深緑ではない深淵にも似た暗さは、そこにいる者の精神すらも苛んでしまいそうだ。
 ただしこれは自身の気持ち次第であって、リオンにとって夜の闇はどうということもなかった。場所が深い森の中であっても、それは変わらない。
 いつもなら変わらないはずの冷静さは、しかし今のリオンにはわずかに欠けていた。焦りと苛立ちで、彼は舌打ちをする。

『坊ちゃん、落ち着いてください』
「僕は落ち着いている」

 せわしなく足を動かしながら、リオンは傍らの剣に尖った声を投げた。そこではっと我に返って、進めていた歩をぴたりと止める。坊ちゃん、と、再度シャルティエが声をかけた。
 心配そうな呼びかけに、足を止めたリオンは息をつく。八つ当たりとしか言えない態度を取ったというのに、この片割れは怒ることもしない。自分に対して甘いんじゃないかと呆れながらも、寛大な対応にほんの少し喜ぶ。
 急いていた気が、次第に落ち着いていった。

「……すまない、シャル」
『どうして謝るんです? 坊ちゃんはただ心配してるだけでしょう。一刻も早く見つけてあげたいんだから、つい焦っちゃうのは仕方ありませんって』

 すべてを見通したような物言いに苦笑し、それからすぐ反論した。

「ちょっと待て、シャル。一刻も早く見つけたいなど、誰が言った」
『さあ、誰でしょうね。それより坊ちゃん、足が止まったままですよ』
「……、くそ」

 反論は失敗に終わってしまう。小さく悪態をついたリオンは、言われるまま行動を開始した。

 リオンの探し人は、ほんの数分前に姿を消した。突然の出来事に、スタンを始めとする面々は慌てふためきすぐにでも探しに行こうと言い出したが、リオンはそれを一蹴した。
 下手に動いて余計な失踪者を出すつもりかという文句にスタンたちは反論しかけたが、自分が見つけてくると言った途端に彼らは口を噤んだ。それはリオンに対する信頼というより、単にリオンの抱えている心配を読み取った末の行いだった、とシャルティエは考えている。

『まあ傍目から見てもわかるくらい、坊ちゃんとフィリアって仲がいいですもんねえ。スタンたちが黙って待ってることにしたのも、納得がいくってもんです』
「……急に何を言い出している」
『いいえ。ただの回想と、それにおける個人的な感想です。気にしないでください』

 いいから坊ちゃんは歩いてくださいまだクレメンテの気配が掴めないんですからと淀みなく告げるシャルティエに声を詰まらせながら、リオンは言われた通りに足を進めた。
 何より確実なのは、フィリアが携えているクレメンテの気配をシャルティエが感知することなのだ。静寂な森の中とはいえ野鳥や野獣の潜むこの場では、特定の気配を掴み取ることはリオンでも難しかった。
 そうしてしばらく歩く中、靴先に何かが当たるのをリオンは感じた。石にしてはやけに複雑な形状に、リオンは視線を足元へ下ろす。その途端リオンは、勢いよく体を屈めた。
 急な行動に驚いたシャルティエは主の名を呼びかけるが、まともな返事はない。ただ驚愕が彼から感じられて、シャルティエは戸惑う。リオンはいったい何を見つけたというのか。

『坊ちゃん、どうしたんです。何があったんですか?』
「フィリアの眼鏡だっ。よりにもよって視覚のすべを落とす奴があるか……!」

 苛立たしげな発言と同時に、前方から爆音が響いた。リオンが顔を上げ、シャルティエも何かに気づいたように声を荒げる。

『クレメンテの気配です、坊ちゃん!』

 鼓膜を震わせる激しい音が鳴りやまない中、フィリアは耳に神経を集中していた。視覚がはっきりしない以上、頼れるのは聴覚しかない。なまじ周りが見えてしまうよりも、と、フィリアは目を閉じて必要な音のみを捉えようとする。

『フィリア、九時の方向じゃ!』
「はい、クレメンテ」

 爆音の中でも、その声ははっきりと聞こえた。言われるままにフィリアは、西に向かって瓶を投げる。耳をつんざく音に続いて、衝撃波がフィリアの顔を、髪を打ちつけた。激しい空気の波に、敵がすぐ近くまでいたことを知らせる。恐怖で思わず目を開けそうになったが、ぼやける視界ほど危険なものはないと、なんとか耐えた。
 しかし、わずかに生じた恐怖がフィリアの足元を覚束ないものにさせる。しまった、と思うよりも早く、バランスを崩したフィリアは地面へと倒れ込んだ。
 フィリア、とクレメンテの叫び声が聞こえる。同じように、フィリアの耳へ獣の咆哮も聞こえた。おそらくは致命傷を与えられていないゆえの、あるいは最期の力を振り絞っての一撃を放とうとしているのだろう。すぐにでも応戦しなければと頭ではわかっていたが、一度崩した体勢はそう簡単に直らなかった。
 先ほどまであった集中が切れている、それまで気づかないふりをしていた疲労を思い出してしまっている、手が足が、動かない。唯一、自由になる目だけを開いて、不明瞭な世界を映した。
 その先にあるのは、ぼんやりとしていながらも今にも襲いかかろうとしている獣の姿だ。

「……!」

 知らず知らず、フィリアは覚悟を決めてしまっていた。

「この、馬鹿!」

 その覚悟を打ち砕いたのは、聞き慣れた怒鳴り声と、迫りくる黒い影を斬りつける一閃だった。
 どさりと、獣が重い音を立ててその場にくずおれる。こと切れた生物に一瞥もくれず、血を払い剣を収めたリオンはフィリアに歩み寄った。

「あ、あの、リオンさ……」
「なぜ勝手に離れるような真似をした、こっちの迷惑も少しは考えろ!」

 その剣幕に肩をすくませながら、フィリアはすみませんと謝った。謝ってすむ問題かとリオンは怒りをあらわにしているが、それでもフィリアは謝罪を繰り返す。
 何度か続けられた後、リオンは大仰にため息をついた。

「眼鏡を落としただろう」
「は、はい、追われている時につまずいてしまいまして……その時に」

 リオンが、手にしていた眼鏡をフィリアへと渡す。謝辞を述べて受け取ろうとしたが、その手は目的のものには触れられなかった。
 フィリアの腕が強く掴まれ、そのまま勢いよく引かれる。上がりかかった悲鳴は、リオンの肩口に吸い込まれた。

「リオン、さん?」
「…………どれだけ心配したと思っている」
「……すみません」
「お前を探す間も、襲われているところを見た時も、……生きた心地がしなかった」

 背中に回されたリオンの腕が痛いくらいだとフィリアは思った。けれどそれほどまでに自分のことを考えていてくれたのだと思うと、申し訳なさよりも喜びが勝ってしまう。
 不謹慎だとわかっていながらも、頬にのぼる熱は止められない。フィリアは自身にされているように、リオンの背中へと手を伸ばした。
 すみません、ともう一度だけ謝って、ありがとうございます、と礼を告げる。苦しいほどの抱擁が、やがて相手を慈しむような優しいものに変わった。

この公認っぷり(笑)