< sanctuary -Philia side- >

(ええと、必要なのはこれとこれと……)

 目的の本を選び、本棚から引き抜いて左腕へと収める。分厚い本は一冊だけでも目方が多く、それが二冊、三冊と増えればそれだけ重くなるものだ。

(う、少し、欲張りすぎましたわ)

 ずしりと重力がかかる左腕に、フィリアは己の軽はずみな行動を後悔した。このままでは確実に本を落としてしまうだろう。重要な書籍を傷ませてはいけない。フィリアはとりあえず本を机に置くことにした。本を抜くために空けておいた右腕を左腕へと伸ばし、頼りなかった支えを堅固にする。それから、近くにあった机へと移動した。

「よいしょ」

 乱暴にならないよう、ゆっくりと置く。惨事を起こさないですんだことに、フィリアは安堵の息をついた。このやり方ならきっと大丈夫だろう、フィリアは再び本棚へと身を翻す。
 そうして書物を選る作業に没頭したフィリアは、知識の塔へ人が入ってきたことに気づかなかった。とはいえ塔内は広い。入室者自身が音を立てないようにしていれば、扉から遠く離れたフィリアが気づくことはないだろう。警戒のけの字もなければ、なおさらだ。
 音もなく扉を閉めた人物は、同じく音を生み出すことなく歩を進める。その足に迷いはなく、かの人物は目的の場所を目指した。

「よいしょ」

 二度目のかけ声と共に、フィリアは数冊の書籍を置く。これで十分だろうか、いやどこか心もとない。声には出さずに自問自答すると、フィリアは三度、本棚へと向かう。
 フィリア以外の声が落ちたのは、そんな時だ。

「フィリア」

 自身を示す音の連なりが耳を打ち、フィリアは反射的に振り返った。背表紙へと伸びていた手が止まる。わずかに目を見開かせて、フィリアはゆっくりと口を開いた。

「リオンさん」

 フィリアの視界に現れたのは、かつての騒乱に因縁のありすぎる少年。当時の彼はとりどりな色彩の衣服をまとっていたが、今のリオンは黒を基調とした衣服を着ている。神殿には似つかわしくない色ではあったが、彼はいつの間にかこの神殿に馴染んでいた。

「やはりここにいたのか。アイルツ司教がお前を探していた」
「司教様が?」
「おそらく後日に施行する、他神殿への視察のことだろう。行程や要員の再確認でもするんじゃないか」
「そうですか。それではすぐに向かいますわ。あ、でもその前に本を片づけないと……」

 フィリアは慌てて机の本に手を伸ばそうとするが、リオンが放っておけと言い放つ。フィリアが怪訝そうな視線を向けると、リオンは小さくため息をついた。

「片づけたとして、どうせ後でここに来るんだろう。戻す時間もまた同じ物を探す時間も、無駄にしかならないと思うが?」
「それは、そうですけれど。でも、本を出しっぱなしにしておくというのは気が引けまして」

 その、と顔をうつむけるフィリアへ、次にリオンは大きなため息をつく。呆れた奴だ、声には出さずともそんな意味合いを含ませた大息に、フィリアは縮こまってしまう。

「何を探しておけばいい」
「……え?」
「他に何が必要なんだ。僕が探してここで待っておくから、お前は気兼ねなく呼ばれてこい。司教は自室だ」

 それがリオンの気遣いであることに、フィリアはすぐに気づいた。ぱっと顔を明るくさせ、謝辞を述べる。必要な本をリオンへ告げた後、彼女は出入り口へ向かった。
 リオンに背を向ける間際、フィリアはそっと微笑んだ。リオンもまた柔らかい表情を返す。その反応に頬を赤らめたフィリアは、ぱたぱたと小さな足音を立て塔から離れた。
 大きな争いを経て、ようやく訪れた平穏。その先は、以前と同じような変わりのない日常だった。参拝者への対応、セインガルド王国の国教として徳を高めること、古代文明の研究等、物心ついてからフィリアが行ってきたことと、今はなんら変わりない。
 その中で一つ違うことといえば、今もフィリアの胸を軽くしているものといえば。
 フィリアは足を踏みしめながら、頬を緩ませた。人通りの少ない回廊を歩いているとはいえ、傍から見れば怪しい人物に見える。その現状に気づいて、フィリアは慌てて表情を改めた。
『そんなふうに泣くから、戻ってきてしまった』
 不意に思い出される言葉に、フィリアは足を止める。わずかに顔を傾け、自分が立っている場所よりも下に意識を向けた。
 フィリアが見つめた先には大聖堂がある。その地下にはかつて『神の眼』が安置されていた。
 ストレイライズ大神殿には、すべてのはじまりがあった。
 そして新しいはじまりもまた、大聖堂地下だったのだ。

 すべてが終わり、迎えるのは傷の癒えない日々。それでも人前では繕っていたあの頃。フィリアはたびたび地下へと訪れていた。大聖堂ではなく地下を選んだのは、あの場が彼と初めて出会った場所だからだ。
 時間を見つけては、フィリアはそこで祈っていた。何を祈っていたのかは、既にぼんやりとしている。はっきりしているのは、そのすべてがリオンへの祈りだったということだ。彼への追悼だろうか、来世での幸福をだろうか、叶わないと知っていての再会を、だろうか。
 そんな日がいくらか続いた時、聞き慣れない声がフィリアの耳を打った。
『大切な人の名前を呼んで。今あの人に何より必要なのは、あなたの呼び声』
 少女の声だった。知らないはずなのに、どこか懐かしいような感覚。その子が言うのだ、呼んで、と。
 大切な人とは誰のことだろう。疑問はすぐに確信へと変わった。考える間でもない、フィリアにとって何より大切だと思うのは。ずっとずっと焦がれ、たとえ世界の理を捻じ曲げてでも、神を、命を冒涜する行為だとしても。
 せめて、たった一度でいい。会いたいと思う相手は、一人しかいないのだ。
『強い祈りは、いつしか奇跡を起こすの。あなたのひたむきな思いが、そしてこの場所が、不可能を可能にさせるんです』
 かつて『神の眼』があった場所。時を経てなおそこに凝ったレンズの力が、遠い別の未来で奇跡を起こしたように、強い祈りを具現化する。
『さあ、フィリアさん。あなたが誰よりも望んだその名前を……』
 口を開いて音を発したフィリアの目の前に、目映い光が現れる。その先にあるものは最初、滲んだ視界で見えなかった。
 相変わらず泣き虫だなと、もう二度と聞けなかったはずの声が音を紡ぐ。
 そんなふうに泣くから、戻ってきてしまった。苦笑した声が耳を打って、もう二度と触れられるはずのなかったぬくもりがフィリアの頬を覆う。
『僕がいないと、お前はだめなんだな』
 触れたと思うより早く抱き寄せられて落とされた言葉に、フィリアはもう何も告げられなかった。
『けれど僕も、お前にずっと会いたかった』

某漫画の名言:あり得ないことはあり得ない
無理やりすぎる奇跡でもいいじゃない!(切実)