< 目で殺して >

 絵のことはよくわからない。すごいな、とか、綺麗だな、とかはなんとなくわかるけど、専門的なことはさっぱりだ。
 けれど、知ってることはある。絵を描く時のベリルはとても楽しそうで、とても真剣ということ。
 そして何より。

「ねえ、ベリル。おれの絵を描いてくれない?」
「へ? シングの?」
「うん。……だめかな」
「え、や、別に、いい、けど」

 戸惑った表情でベリルは、ボクの絵でいいの、と返してくる。その質問に、シングは満面の笑顔を向けて言った。嫌だったら最初から頼まないよ。

「じゃあ、そこに座って。じっとして……るのはシングには無理そうだから、楽にしててね」
「失礼だぞ、ベリル。おれだってじっとしてるくらい、できるって」

 口を尖らせるシングだったが、ベリルはシングの文句を受け入れない。「ゼッタイに無理だ」とまで、彼女は断言した。
 そこまで言い切られると自信がなくなってくる。大人しくシングは、ベリルの言葉に従うことにした。じっとしているのではなく楽にしようと、張っていた肩の力を抜く。それを認めて、ベリルは手を動かし始めた。
 木陰に腰を落ち着けたシングの耳に、線を引く音が絶え間なく打ちつける。時折小鳥や風の音が混じるが、そのほとんどはベリルが生じさせる音のみだった。
 穏やかだな、とシングは思う。基本的にシングは、体を動かしているほうが好きだ。めいっぱい動いて動いた分の汗をかいて、疲れたらご飯を食べて体を休める。そうやって日々を充実させることがシングの生き甲斐ではあるが。

(こういう時間も、いいな)

 いい陽気の中、楽な姿勢で体を動かすでもなく、特に何かをするわけでもなく。ただぼんやりしながら絵のモデルになるのも、いい。シングは思う。

「……へへっ」
「? どしたのさ、急に」
「ううん。なんでもない」

 嬉しそうに笑うシングに、ベリルはひたすら疑問符を浮かべている。その反応も楽しいと、シングはいっそう笑みを深めた。
 絵のモデルになるのは、後にも先にもベリルだけだろう。そもそもシングがどこかの画家からモデルを頼まれること自体ないのだろうが、そこはそれ。重要なのは、ベリルがシングをモデルにしてくれるということなのだ。
 シングはベリルに自分の絵を描いてほしかったり、ベリルの絵がものすごく欲しいというわけではない。ベリルの絵が嫌いというわけではないし、ベリルが自分のために描いてくれたものなら欲しいとは思っている。しかし何が一番の目的かと聞かれると、ベリルの絵、ではなかった。

 じっと、対象を見つめるベリルの視線、それこそがシングの望んだものだ。

 シングは、ベリルが絵を描いているところを何度か見たことがある。その時のベリルは、心から楽しそうに、そして真剣に描いていた。時には思うようにいかなくて苦しそうだったり、悲しそうにしていることもある。けれどそれは、絵を描くことが好き、という根底があるからだ。好きだから、思う通りにいかなかったら悔しい。その気持ちは、シングにもわかる。
 共感しながら眺める中、シングは一つ気づいた。
 ベリルは絵のモデルに対して、怖いくらいに視線を向ける。ただ目を当てるだけでなく、貫くように、それそのものの本質を見定めるように、じっと。熱い視線を。
 乞うような視線を知った時、シングはそれが欲しいと思った。睥睨に似た、けれどそれにこもっているのは、過ぎるほどの熱情。あんな目で見られたらきっと、灼き尽くされてしまうんじゃないかと。本当に灼かれるわけではないけれど、それくらいの視線を向けてもらえたら、言葉にできないほどの喜びを味わえる気がした。
 だからシングは、絵を望んだ。自分の絵を描いてほしいと、一番の望みをこっそりと隠して。
 そうしてシングは、求めていたものを手に入れたのだ。

(たまんないや)

 惜しむらくは、シングが「絵の対象」でしかないことだろうか。ベリルがモデルに選んだ相手(動物でも静物でも)なら、この視線は誰だろうと受け取れる。唯一ではないのだ。
 いつかこれが、自分だけに向けられるようにならないだろうか。もしくは、自分だけに向けられる視線というものができないだろうか。
 そんなことを考えて、欲ってとどまることを知らないんだなあと、シングは初めて理解した。

(ま、でもそれは「いつか」のことにしとこうっと)

 とりあえずはモデルとして、ベリルの熱い視線を堪能せねば。