< 空が泣いた後 >

 白刃が弧を描けば、巨躯がその跡を追う。重い音を立てて地に伏したそれは、わずかな痙攣の後、ぴくりとも動かなくなった。

「さっすが、クー! 見事なもんだねえ」

 剣を鞘に納めると、殺伐としていた場に似つかわしくない声が上がる。張り詰めていた空気をぶち破るような明るい声に、振り向いたクロエは苦笑した。

「そんなに褒められるようなことじゃない。私の剣技はまだまだだ」
「そうかなあ。クーは真面目すぎるって。人の賛辞は素直に受け取っとくもんだよ?」
「そうじゃ、クッちゃん。ワイが見ても鮮やかな手つきじゃったで。のう、セの字」
「ああ、そうだな」

 口々に褒められ、クロエは反応に困った。本当に、自分でも技量はまだまだだと感じているのだ。そこまで言われるほどのものではない。どう返したものかと考えていると、雲行きが怪しいことに気づいた。

「……一雨きそうだな」

 ぽつりと呟けば、他の三人も空を仰ぐ。こうしてはいられないと、一行は街へ戻ることに決めた。

「わっ、降ってきちゃったよ」

 急ぎ足では曇天の落涙に間に合わなかったらしく、ぱらぱらと水が落ちてくる。腕で顔を覆いながら、戻る足をさらに速めた。その中でクロエは一人、顔をうつむける。空を見上げることが苦痛で、急くように足や腕を動かしていた。
 叶うなら耳を塞ぎたかったが、周りの人間が不審がるだろうと我慢した。しかし、クロエの様子に気づいた者はすぐ隣にいたようだ。

「どがあしたんじゃ、クッちゃん。具合でも悪いんか?」
「! い、いや、そんなことはない」
「そうか? 顔色が悪いように見えるが」
「なんでもないんだ、気にしないでくれ」

 そう答えはするが、モーゼスは納得していないようだった。心配そうに見える表情が心苦しい。本当になんでもないと告げようとした口は、思いとは裏腹に本音を吐いていく。

「雨は嫌いなんだ。だだ、それだけ……」

 雨脚が強くなり、このままでは街に着く前に濡れ鼠になりそうだった。

 一行がウェルテスに着いた頃には、案の定、全員が濡れそぼっていた。このまま街中を歩き回るわけにもいかず、入り口から程近い宿屋でタオルを借りることにした。

「いやー、参ったねえ」
「あそこまで強くなるとは思わなかったな」
「まあ、動いた後の水浴びと思えば、気持ちいいもんじゃろ」
「そう思えるの、モーすけだけだよ。ねえ、クー」
「えっ、あ、そうだな」

 扉を隔てていても、強い雨はその音を忍ばせてくる。極力、雨音を聞かないよう無心に体を拭っていたクロエは、ノーマからの問いかけに内心で驚いた。動揺は彼女に伝わってしまったようで、「どったの、クー」と不思議そうな表情が返ってくる。

「いや、その」
「あ! もしかして体が冷えて寒気がするとか? クーの服装ってぴったりしてるから、濡れたら濡れた分だけ体温が奪われそうだもんねえ。こうしちゃいられないよ、早くお風呂にでも入って体あたためなきゃ」

 そうしようそうしようと、ノーマはぐいぐいとクロエの背を押す。急な展開に驚きつつも、その後クロエはノーマと一緒に宿屋の風呂へと入浴することになった。

「災難じゃったのう」

 クカカと小さく笑うモーゼスから話しかけられたのは、あれよという間に温かい湯に浸からされ、普段よりも厚めの服装に着替えさせられた後のことだ。クロエは苦笑をこぼして、そうだな、と頷く。

「シャボン娘もシャボン娘でクッちゃんのこと心配しとるんじゃろうが、やることが強引じゃからのう」
「……やることが強引なことについて、シャンドルはとやかく言えない気もするが」
「……まあ、そこはそれじゃ」

 ちくりとかつての勾引について指摘すると、返る声は小さかった。その反応に微笑んでから、クロエは頭にかけていたタオルで耳を覆うようにぎゅっと握る。
 未だに降りやまない雨の音を、壁越しに、タオル越しに、少しでも遠くへと追いやりたかった。

「のう、クッちゃん」
「……ん? なんだ」
「雨がやんだら、ちょっとワイに付き合ってくれんか?」

 しばらくの時間を経て、ようやく雨が上がる。厚かった雲は薄れていき、所々で青い色がのぞいていた。
 窓越しに空の様子を眺めながら、クロエはそっと息をつく。時間にしてはそこまでではなかったのだろうが、クロエにとって耐え続けるには長かった。そんな状態で体を動かすのは億劫だったが、モーゼスの誘いを受けた以上は断るわけにもいかない。少しだけ憂鬱な気分を抱えたまま、クロエは外に出るための着替えをすませた。

「待たせただろうか、シャンドル」
「そんなことはないで。ほいじゃあ、行くか」

 そう言うとモーゼスは街の外へと向かう。どこへ行くのかと背中に問いかければ、迷いの森じゃと返ってきた。
 ウェルテスから迷いの森まで距離は遠いが、ダクトを使えば一瞬だ。時間をかけずに森の出入り口まで着くと、モーゼスは迷いなく森へと入っていった。迷いの森で、迷いがないとは矛盾しているなと、クロエは小さく笑う。そしてモーゼスが、彼にしては珍しく口数が少ないことに気づいた。
 どこへ行くのだろう、とクロエは思う。目的地は聞いたが、それは大まかな場所でしかない。迷いの森の「どこ」へ、モーゼスは行くのか。
 問いかけようとしたところで、モーゼスが足を止めた。

「ここじゃ、クッちゃん」

 振り向いた彼は、クロエに告げる。

「上、見てみい」
「……これ、は」

 昼の星かと紛うほどの無数の光が、見上げた先にはあった。迷いの森と呼ばれる鬱蒼とした場所には似合わない、きらきらとした光が暗い緑の隙間からこぼれている。そうして差し込む光が幾筋もあった。

「綺麗じゃろ」
「あ、ああ」
「こん森は全体的に暗いんじゃが、ここいらだけは日の光が差し込んでくるみたいでの。特に雨上がりは、葉っぱについた雨粒がきらきら光りよるから見応えもある」
「そうだな、きれい……」

 普段あまり見ることのない光景に、生返事にしかならない。しかし、モーゼスは気を悪くしたふうもなく続ける。

「ワイのお気に入りの場所じゃ。クッちゃんにも気に入ってもらえたらええのう」
「……うん……」

 やはりぼんやりとした返事しかできなかったが、モーゼスは笑っていた。

「のう、クッちゃん」

 どれくらいの間、森の木漏れ日を眺めていたかわからない。上げていた顔を下ろした時、首が痛くなっているくらいには長時間そうしていたようだ。襟首を擦りながら、けれど悪い痛みではないなと思っていると、モーゼスが口を開いた。

「なんだ、シャンドル?」
「生きてる以上、嫌いなもんができるのは当たり前のことじゃ。ワイもジェー坊とはソリが合わんし、ヤツと仲ようなるなんて絶対に無理じゃろう」
(いや、十分気は合ってると思うが……)

 いつもの言い合いは仲がいいようにしか見えないのだが、それを言うのはやめておく。

「じゃがのう、世の中が嫌いなもんで溢れるのはつまらんし、悲しいことじゃ。じゃから、嫌いなもんがあったらそれ以上に好きなもん作りゃええ。食いもんでも、場所でも、人でものう」
「……シャンドル」
「雨が嫌いでも、雨上がりの景色が好きになれりゃ、それはそれでチャラじゃ。そうは思わんか?」

 木漏れ日に照らされたモーゼスの笑顔は、その時のクロエにとって不可思議な感情を与えた。嬉しいような悲しいような、胸が痛くなるような、ぬくもりを覚えるような。
 一つ確かなことがあるとすれば、降雨に覚えていた不快感は綺麗に拭われているということだった。

こういう大人しい(?)モーゼスを夢見てもいいと思うんだ
そしてモーゼスの「クッちゃん」呼びが可愛くて仕方ない