< おやすみの前に >

 控えめなノックの音に、リフィルは読んでいた資料から顔を上げた。

「誰?」

 扉の前まで移動し、隣室で眠るジーニアスを起こさないように抑えた声で問いかける。ややあって「俺」という声が返ってきた。リフィルは小さくため息をつき、苦く笑う。

「あいにく『俺』という名前の知り合いはいなくてよ」
「……ロイドだけど」
「最初からそう言いなさいな」

 苦いものを軽やかなものに変えて、リフィルは扉を開けた。

「こんな遅くに珍しいわね。どうかしたの?」
「ん。トイレに行きたくなって、さっき起きたんだ」
「……ここはトイレじゃないのだけど」
「わ、わかってるよ。それにもう、ちゃんとすませてきたし」

 わたわたと言葉を発するロイドに、リフィルはまた少し微笑みをこぼす。笑うなよと少年は怒るが、赤い顔で言われても怖くはなかった。
 一通り笑い終えた後で、リフィルは再び質問を投げかけた。所用がすんでなお、ここに来る意味は何か、それを聞く。するとロイドは、途端に口を噤んだ。

「ロイド?」

 うつむく顔を見上げ、名前を呼びかける。じっと相手の顔を見ていると、表情が変わっていくさまが見て取れた。
 何かを悩み、やがて意を決したように、それから表情を改める。そういった三段階の変化だ。

「先生、まだ寝ないのか?」
「私? 資料の確認をしたら寝るつもりよ」
「……それって、どれくらいかかる?」
「あと五十頁くらいだったかしら」

 ロイドが大きく息をついた。呆れたようなため息に、リフィルは眉根を寄せる。何かしら、と視線だけで問いかけると不機嫌そうな表情が返ってきた。

「先生、人には早く寝るように言ってるくせに、自分は平気で夜更かししてるじゃないか」
「それは、否定できない、わね。でも、私にとってはこれが普通だし、慣れているもの。第一、私はいつもロイドたちより早く起きていると思うけれど」

 痛いところを突かれたのか、ロイドの表情が暗くなった。リフィルは思わず笑いをこぼす。しかしロイドはすぐに顔を上げ、それでも、と強く言葉を放った。

「それでも、疲れが十分に取れてるかって聞かれたら違うだろ」
「……いいえ」
「間が空いたからアウトだ」

 何がアウトか。リフィルは額に手を当て、少し悩んだ。
 その間もロイドはリフィルに視線を当て、それはまったく外れる気配がなかった。自分ももう寝るように促したいのだろう。ロイドの言いたいことはわかるが、リフィルもまた資料の閲読を中途半端なままやめたくはなかった。
 おそらくは二人とも、半ば意地の張り合いになっていたのかも知れない。すぐに寝たほうがいい、まだ大丈夫だという言葉のぶつけ合いは、それからかなりの時間を費やした。

「……先生。そうこう言ってる間に、結構経ったと思うんだ俺」
「……そうね。いい加減で休まないと、私でも少しきつくなる時間帯だわ」

 リフィルの言葉に、ロイドがぱっと明るくなる。リフィル自身も休むという示唆に反応したのだろう。どうあってもロイドは、今すぐリフィルを寝かせたいようだ。どうしてそこまで強く言うのかわからないが、これも彼の優しさだ。休息が大事なことは、リフィルとてわからないわけではない。

「私ももう休むわ。だからロイド、あなたも部屋へ戻りなさい」
「うん」
「明日の、あなたの起床時間が楽しみね?」

 ほんの少し意地悪に告げると、どもりながらもロイドはうん、と頷いた。

「それじゃあ、おやすみなさい。ロイド」
「おやすみ、」

 それは、止める間もない動作だった。ゆっくりと、ロイドの体が傾いたと思うと、頬に落ちるほのかなぬくもり。

「……リフィル」

 職名のない、個だけが耳を打つ。聞き間違いだと思えないほど、その声は熱を孕んでいた。

「……っ」

 抑えられないほど赤くなった肌に、ロイドは満足そうな顔を見せる。いたずらが成功したような表情で、彼はそのまま扉を閉めた。
 ぱたん、と静かな音が部屋に響くと同時に、リフィルはその場にくずおれた。頬から耳にかけての場所を手で覆って、どくどくと鳴り止まない心音を聞くともなく聞く。

(突然すぎるわ)

 不意打ちなんて卑怯だとリフィルは思った。

(あんなの、生徒が教師にすることじゃない)

 そう言ったら彼は、「生徒」として「教師」にやったことじゃないと言うのだろうか。そんなことを考えて、さらに熱が上がってしまう。
 こんな調子では、本当に明日に響いてしまうだろう。リフィルは気持ちを切り替えるため、顔を洗うことにした。顔を洗ってすっきりしてから、しっかり休もう。そうすればまた明日にはいつもの調子を取り戻せる。

「大丈夫よ」

 鏡に映る自分の顔が赤いままだとしても、明日の朝には戻ってくれるはずだ。言い聞かせるようにリフィルは呟く。

(明日、ロイドの起床が最後だったら、叩き起こすわ)

 ロイドが起きていれば何をすることもない。だからこれは、決して八つ当たりにはならないのだ。