< やりたいようにやっただけ >

 後悔したって構わない、どうせ悔やむ思いすらなくなってしまうかも知れないのだから。

「なあフィリア、聞いてもいいか?」

 若草色のみつあみを揺らす、一つ上の女性に尋ねた。彼女は才知に長けていて、聞けば大抵のことは答えてくれる。この時も、フィリアは快く受け答えた。なんですかリッドさん、いつものように分厚い本を抱えて。

「たとえばの話で悪いんだけどさ」
「はい、構いませんよ。わたくしで答えられることでしたら、なんでもお答えしますわ」

 嬉しそうに微笑むのは、リッドが質問しているからだ。フィリアは知識を増やそうとする行為を好む。賢くない人間が嫌いというわけではなく、何かを知ろうとする行動を好ましく思っているのだ。司祭という職に就いていることからも、フィリアは人に教えを説くことが好きなのだろう。反対にリッドは学ぶことがあまり得意ではなく、必要に迫られない限りは頭を使おうとはしない。しかし、こうして嬉しそうにするフィリアを見るのは好きなので、何かを尋ねる時はフィリアに頼ることにしていた。異性に聞きにくい話題になると、その役目はキールへと代わるのだが。
 この時ばかりは、違った。

「リッドさん?」

 思考に耽るリッドを、フィリアの声が呼び戻した。悪い、と一言謝って、話題を元に戻す。リッドはフィリアに聞きたいことがあった。だからここへ、彼女の元へと尋ねに来たのだ。それは、たとえばの話として。

「たとえば」
「はい」
「たとえば俺が、フィリアを抱いたとして」
「はい。……、……え?」

 目をまたたかせるフィリアに構わず、リッドは先を続けた。

「すべてが終わった後、それは最初からなかったことになると思うか?」

 言い終えて反応を待つ。予想通り、フィリアからの返事はなかった。ぱちぱちと薄紫の目を閉じて開いて、言葉を詰まらせる。意味を理解しているのか、色白の肌が淡く染まっていた。それを見て、そこまで鈍いわけではないことにリッドは安堵する。
 しばらくじっと見つめていたが、やがてフィリアは困ったように柳眉を下げた。顔をうつむけ、どういうことですか、と問い返してくる。

「そのままの意味だよ。俺がフィリアを抱いたなら、その記憶は残ったままなのか、消えてしまうのか」
「……それは」
「キスすることも考えたけど、それだけじゃ足りない気がしてさ。どのみち、ちょっとでもさわったら理性なんて吹っ飛びそうだし」

 たたみかけるように言葉を降らせると、フィリアがばっと顔を上げた。やめてくださいと懇願するさまは羞恥に満ちている。他にどんな表情をするのかと、触れる前から理性が揺らいだ。
 衝動的にならないようゆっくりと手を伸ばすが、リッドの動作にフィリアの体が震えた。発言をした以上、どうやっても怖がらせてしまうのだろう。理解した上で、それでもリッドは手を止めなかった。
 震えた声が制止するが、構わずに引き寄せる。多少の抵抗はあったが、無理強いをしなければならないほど強い抗いでもなかった。フィリアから完全な拒否は見られない。
 そうして腕の中には、フィリアがすっぽりと収まった。

「もう一回聞くぞ。俺がフィリアを抱いたとしたら、その記憶は消えると思うか」
「……消える、でしょう。本来、わたくしたちは出会うはずがなかった。この世界の女神が禁を犯してまで、境界を越えさせたのです。すべてが終われば、何もかも消えますわ。この時間も、この世界での記憶も」

 抱きしめて尋ねると、思いのほか冷静な声でフィリアが答えた。その冷静さがやるせない。それでいて、落ち着く。何より求めていた答えを、フィリアは返してくれたのだ。リッドは少し、腕に力を入れた。

「? リッドさ……」
「なあ」

 フィリアにだけ聞こえるようにささやく。耳元に息がかかったからか、フィリアがびくりと震えた。

「もしそうじゃなかったら?」
「え?」
「記憶が消えなかったら? 印象の強い夢は起きた後でもなんとなく残ってる。だとしたら、そういうの覚えてる可能性、ないわけでもないだろ。そうじゃないか?」
「で、でも、残らない可能性のほうが高いですわ。女神だってそのつもりで」

 ささやくついでにくちびるを当てると、反論が消えた。体を固まらせる様子が面白かったので、次は舌を伸ばしてみる。舐めた箇所は熱かった。おそらくは、フィリアの羞恥からくるものだろう。果たしてフィリアは顔を真っ赤にさせ、やめるように言ってきた。
 いやだ、とリッドは要求を呑まない。もう一度耳へ当てたくちびるを首筋に移動させると、フィリアは体を縮こまらせた。悲鳴とは違う声に、鳥肌が立つ。
 ああまずいなと思ったのが先か、彼女を組み敷いたのが先か。熱が支配する頭では細かいことは考えられなかった。
 不安げな表情のフィリアと真正面から目が合う。リッドはそっと、言葉を落とした。

「確かめてみる価値はあるんじゃないか」
「……そんなことは」
「あるさ」

 きっぱりと言い切れば、どうして自分なのかと、フィリアは声を揺らせた。自分以外で試せと、言外にほのめかしているのだろうか。

「誰でもいいわけじゃない。フィリアがいい、フィリアだから抱きたい。……あんたが相手だから」

 次第に感情が高ぶって、声が詰まりそうになった。平静だった心音が、とくとくと速まっていく。苦しさに顔をしかめれば、白い指が頬に触れた。
 驚いて目の前を見やれば、ためらいながらもフィリアが手を伸ばしている。その手はかすかに震えていた。

「わたくしが嫌がるとは、思わないのですか」
「本気で嫌だったら、とっくに俺から逃げてるはずだ。嫌がってないのがわかるから、ここまでしてる」

 震えている手を取って、頬を寄せる。フィリアは泣きそうな顔をしていた。

「俺にさわられるのは、嫌か?」
「…………いいえ」
「じゃあ、確かめてもいいだろう」
「は、い」

 小さな、ちいさな声が受け入れる。喜びと悲しさが混ざって、胸の奥が締めつけられるようだった。

 この時の行動は、いったい何からくるものだったのか。
 一時的な感情か、突発的な欲望か。
 それでも、そうだとしても。フィリアへ触れることに、軽薄な気持ちはなかった。ただ純粋に触れたいと思った。何かを残せるなら残したいと思った。
 きっと残せないとわかっていても、何もかもを思い出せないと知っていても。

(何もせずにはいられない)