< 石ころと本 >

 本を読みながら歩くという行いをやらかす人間が実際にいたとは驚きだ。そうやっていると本以外に注意がいかなくなることを知らないわけでもないだろうに、その人物は見事やってのけた。そして案の定、足下がお留守になってしまった彼女は、哀れ、そこに転がっていたなんの罪もない石ころに足をつまずかせたのだ。

「……だいじょうぶか」
「……はい」

 高い声を上げて派手に転んだ女性に近づいたリッドは、気まずそうに声をかけた。言葉をかけられたフィリアも、気まずそうに答える。そばには可哀想な石ころと、結構な厚さを誇る本が開かれていた。

「あー、まあ、実体験の後だからわざわざ言わなくてもよさそうだけど……、読み歩きは危ないぜ?」
「そう、ですね。たった今、身をもって理解いたしました……」

 地に手をついて、フィリアが弱々しく言う。頬が赤いのは、羞恥によるものだろう。恥ずかしいという雰囲気が、フィリアからはひしひしと感じられる。そんな彼女を、リッドも直視できなかった。

「とにかく、だな。……立てるか?」

 それでも気を取り直して、勢いよく腰を上げたリッドはフィリアに問いかける。すぐに「はい」という返事が返って、フィリアも立ち上がった。少し膝を打っただけで、幸い怪我もなかったようだ。
 それは何より、とリッドは落ちていた本を拾う。相変わらず薄くない本は、リッドの手には少し重すぎた。

「よくこんなの読む気になるな」
「あら、でも面白いですよ。リッドさんも一度、何か読んでみてはいかがでしょうか」
「ああ、や、俺はいいや。そういうのは他に任せるよ」
「でも、手軽に読めるものもあるのですけれど……」

 どうしても読ませたいのか、フィリアはちらりとリッドを見上げる。う、とリッドは返答を詰まらせた。そういう上目遣いは卑怯だと思う。

「……」
「……」
「……」
「……だめですか?」

 だめと言えない雰囲気であることにフィリアは気づいているのだろうか。それともこれはわざとなのだろうか。もしそうだとしたらなんと性質の悪い。
 向けられ続ける視線に、リッドは諦めの吐息を吐いた。

「フィリアが読んでくれるならな」

 手軽とはいえ、本一冊を読み上げるのはそう簡単ではない(子供向けの童話ならともかく)。さすがに横着だったろうかと思うリッドに対して、フィリアの反応は予想外だった。

「はい、喜んで!」

 嬉々として頷くフィリアに、リッドのほうが驚く。いいのか、と思わず問い返すと、任せてくださいと返ってきてしまった。

「いや、でも……読むの、大変だろ?」
「そんなことありませんわ。それよりも、リッドさんが興味を持ってくれたほうがとても嬉しいです」

 だから、読むことはまったく苦ではないとフィリアが答えた。こうまで好反応をもらえるとは思わなかったリッドは、どうしたらいいのかすぐにはわからなかった。あわよくば、読まずにすむかと考えた発言でもあったのだ。

(……ま、いっか)

 フィリアは賢くないわけではない。リッドがどんなものに拒否反応を起こすかくらい察してくれているはずだ。その上で勧めるのだから、自分でもついていけるだろう、少しくらいは。リッドはそう考えることにした。
 それにフィリアが読んでくれるのだ。一人黙々と読むよりは、何倍も意義のある過ごし方に思えた。