< はじめましてと勘違い >

 耳を打つ音に目を向けると、二人の女がこちらへ歩いてきていた。この先にある医務室に用があるのでなければ、ユーリが佇んでいる近くにある科学部屋に向かっているのだろう。あまり見かけない姿に新しく入ってきた人間だろうかと思いながら、ユーリはその二人を見るともなく見ていた。
 不意に、そうそう、と黒いショートヘアの女が口を開く。なんでしょう、と若草色のみつあみをした女が首をかしげた。

「リリスがこの辺りを入念に掃除したから、歩く時は気をつけてねって言ってたわよ」
「そうなんですか?」
「なんでも、船内を走り回る子供対策らしいわよ。これだけ磨いてれば滑るだろうから、いちいち注意し回るより手っ取り早いって」
「それは、少し……強引、ですね」

 からからと笑う女とは反対に、もう片方は苦笑していた。強引にも程がねえかと、ユーリも内心で後者に賛同する。滑らせるために磨き抜いたとなれば、掃除の定義が変わってしまうだろう。

「ま、普通に歩く分にはそこまで差し支えはないんだけどね。フィリアの場合、先に言っとかないとうっかり転んじゃいそうだから」
「ルーティさん……」

 茶目っ気の混じったウインクに、若草色の女は言葉を失ったようだ。しかし自覚しているのか、彼女は怒ったりはしなかった。しばらくの無言の後、気をつけます、と気合いすら入れている。
 しかし、固い決意はもろくも崩れた。あるいは、気合いを入れすぎたのが原因だったのか。一歩踏み出した足は見事に滑った。
 滑ったのだ。つるりと。
 そしてユーリは、足を滑らせた若草色の女を、咄嗟に体で受け止めていた。
 悲鳴が響くのと、腹部に衝撃を受けたのはほぼ同時だったように思う。とはいえ、それほど強いものではなかった。相手の体重が軽いこともあるのだろう。衝撃というより、振動と思えるほどだ。どちらかというと、床に打ちつけた腰のほうが痛い。咄嗟の行動で、ユーリもまた踵から滑ったせいだ。

「っ……、平気か?」
「……え……」

 固く目を閉じていた相手は、ユーリの声にこわごわと目を開けた。二度、三度またたいて、ゆるゆると視線を上げる。かち合った女のガラス越しの目は、綺麗な薄紫をしていた。

「あ、の……」
「ちょっとフィリア、大丈夫!?」

 そうして何か話し出そうとするのを遮ったのは、ショートヘアの女だった。気をつけてって言った先にこれだから目が離せないのよあんたはまったく、と、まくし立てている。それを受けて、ユーリの懐に収まった女は平謝りを始めた。
 助けたのは自分の勝手だが、こんなところで違う相手にぺこぺこと謝られるのはいかがなものか。
 と、ユーリは思う。しかし、この状態がさほど悪いものではなかったので、敢えて何も言わなかった。ただいつ気づいてくれるのか、そんなことを考えてみる。
 思考に当てられた時間は、それほど長くなかった。若草色がふわりと揺れ、女の顔がユーリに向けられる。それから、謝辞を述べようとしたのだろうところで、

「きゃあああああっ」

 ユーリは悲鳴を上げられた。

 最初はわけがわからなかった。助けたはずが、まさか叫ばれるとは思いもしない。自分は何かしてはいけないことをしでかしたのかとすら、ユーリは自問した。
 しかし、女の悲鳴はすぐに謝罪へ変わった。すみませんすみません申し訳ありません、わたくしは本当になんてことをごめんなさいごめんなさい以下略。
 謝罪の多さにも驚いたが、その表情にも首をかしげた。彼女はなぜか頬を赤くしていたのだ。顔がうつむき加減だったので真正面からは確認できなかったが、それでもわかるほどに相手からは羞恥を感じる。
 対応に困ったユーリは、視線を上げた。同じように驚いているショートヘアの女へ、助けを求めることにしたのだ。
 ユーリの視線に気づいたのか、すぐに女は口を開く。

「どうしたのよ、フィリア。なんでそこまで謝り倒してるの」
「いえあのその、だってルーティさん、わたくし、わたくし……」

 言葉を切らせたかと思うと、急にはっとして若草色……フィリアというのだろう、彼女はユーリの襟元を掴んだ。突然の行動にユーリは目を見開かせ、ルーティという女もまた瞠目する。

「本当に申し訳ありませんでした!」

 一際高い謝罪が響いた後、掴まれた襟元は正面で合わされた。
 無理やり。
 そう、無理やり。

「……苦しい」
「え?」

 大きく見開かれた目は、こぼれ落ちそうなほどだった。

「すみませんすみません本当にどう謝ったらいいか」
「もう、いいって。紛らわしい格好してる俺も悪いっちゃあ、悪いんだし……悪いのか?」

 思わず隣にいたルーティに尋ねてみる。相手はすぐさま悪いわね、と返してきた。

「でもま、しょーがないわよ。相手がフィリアじゃね。異性への免疫が皆無ってなくらいだから、あんたみたいな外見に叫ぶのも当然というか」
「……そうなのか?」
「は、はい。その、あなたのような服装を着ている方はあまり見たことがなくて……。助けていただいた時に、わたくしが肌蹴させてしまったものだと思いました」

 だからあれほど謝罪をし、かつ羞恥に満ちていたのか。合点がいき、ユーリは一つ頷いた。そして自分が何か悪いことをしたわけでもないことに(叫ばれた原因があると言えばあるが)、安堵する。新しいギルドの仲間に不埒を働いた男というレッテルを貼られずにすんだ。実際働いていないのだから、貼られるなんぞご免こうむりたい。

「まあ、いろいろわかったところで、全面解決だな。俺はもう気にしてないから、あんたも謝る必要はねえぜ」
「え、あ、はい。ありがとうございます、えっと」
「ああ。俺はユーリだ、若草のお嬢さん」
「若草……、ふふ。わたくしはフィリア・フィリスと申します」

 名前と合わせるとややこしいファミリーネームだ。しかし、名前だけならなんとか言えるだろう。今後も顔を合わせるなら、名前を言わないずくというのも失礼な話である。
 ユーリは口の中で何度か呟き、そして彼女の名を改めて音にした。

「フィリア、だな。これからよろしく」
「はい。よろしくお願いいたします、ユーリさん」
「ちょっと、あたしの存在はガン無視かしら」
「ああ、忘れてねえぜ、黒髪のお嬢さん。あんたの名前は?」

 にやりと不敵に笑ってみせれば、相手も負けじと強気な笑みを放ってきた。彼女は腰に手を当て、ルーティ・カトレットよ、と高々に告げる。

「ん、覚えた覚えた。そんじゃ、今後ともご贔屓に。お二人さん」

 笑顔を向けるとフィリアは微笑みを返し、名前を呼ばれなかったのが気に入らないのかルーティは眉根を寄せていた。それぞれの反応に再び笑みをこぼしながら、面白い人物が増えたことをユーリは喜ぶ。

(これから楽しくなりそうだな)

もっぱらフィリアに対して期待してればいいと思います
悪巧み的な意味でルーティともタッグを組めばいいと思います