< Unconscious jealousy >

 楽しそうと言うよりは、小難しそうと言うほうが正しい。聞き慣れない単語がいくつも飛び交う会話は、おそらく専門的なものだろう。多少はわかるものの、完全には理解することが難しい。
 ユーリの耳に飛び込んできたのは、そんなフィリアとキールの声だった。

(……まあ、知識の質も波長も似てるから、気が合うんだろうな)

 ふと見かけた二人の姿に、そんなことを思う。気が合う者は気が合う者同士、仲よくするに越したことはない。諍いが起きてそれを収めるために、いらぬ労力を削られるよりはずいぶんといいものだ。何よりユーリには、彼らの小難しい話に割って入るほどの理由がない。
 小さく息を吐きつつ、ユーリは目的地だった食堂へ向かった。

「あ、ユーリ。こんにちは」
「ああ、エステルか。……何してんだ?」
「はい。リリスとクレアにお菓子の作り方を教わっていたんです」

 目的地への扉を開いた先には、甘い香りと楽しげな声が広がっていた。入ってきたユーリにすぐ気づいたエステルから、その理由を知る。

「どうです、なかなか上手にできたと思いません?」

 差し出されたのはガトーショコラだった。エステルが自信満々に告げるように、結構な仕上がりだ。ユーリは素直に、うまいもんだな、と賛辞を送った。

「エステルはなかなか筋がいいから、教え甲斐があるわ」
「クレアやリリスの教え方が上手なんですよ。ふふ、食べるのが楽しみです」
「よかったら、ユーリさんも食べませんか? ここに用事があるみたいですし」

 リリスの提案にユーリはしばし逡巡し、それから首を横に振る。悪い、と一言呟いて出ようとすると、服の裾を掴まれた。

「……どした、エステル」
「用事があったんじゃないんです?」
「あー、あったような気がするんだが……忘れた」

 どこかぼんやりと答えたユーリに、エステルは首をかしげる。ユーリの返答を笑うわけでもなく、問い詰めるわけでもなく、じっと見つめていたかと思えば彼女の口が開いた。

「なんだか不機嫌ですね、ユーリ?」

 その言葉が、ひどく突き刺さる。

 目的地だった食堂へ行ったかと思えば何をするでもなくすぐに引き返したユーリは、今は甲板に座り込んでいた。
 本当に何をしているんだろうと思うが、はっきりしたことはわからない。忘れてしまったというのは言い訳ではなく、真実でもあったのだ。

「……んとに、何してんだか……」

 はあ、と自分でも情けないと思えるような息を吐いた時、ユーリに声をかける者が現れた。彼の耳に馴染んだ音は、フィリアのものだ。

「どうかされましたか? もしかして、具合でも悪いのでは」
「や、別に」

 なんでもない、と告げようとしたが、フィリアが同じように腰を落としたので先が続けられなかった。ユーリと同じ視線に、フィリアの顔がある。先ほどのように他の誰かがフィリアのそばにいるわけでもない、見かけた時のように違う誰かと会話を弾ませているわけでもない。今のフィリアは、ユーリにだけ意識を向けている。そうして心配そうに揺れる薄紫が、なぜかひどく心地よかった。
 心地よく感じる理由はすぐにわかった。不機嫌だと言い当てられたのは、それが原因だろう。言われて気づくなど自分でもどうかしているとは思ったが、それまで思い当たらなかったのだから仕方がない。

「ユーリさん?」
「……今の俺、機嫌悪そうに見えるか?」

 エステルの言葉が突き刺さるように感じたのは、それが図星だったからだ。簡単に見抜かれてしまうほどなのか、気になって尋ねた。
 ユーリの質問に、フィリアは頭を傾けて悩む。考える時点で「そう」見えにくいことのようにも思えたが、ユーリは口を挿まなかった。

「ええと、そうですね……。先ほどまでのことはわかりませんが、今のユーリさんはいつも通りだと思いますわ」
「いつも通り、か?」
「はい。どちらかというと、少し機嫌がよさそうにも見えます」

 微笑みながら答えるフィリアから、嘘をついている様子は見られない。ということは、今の自分は本当に機嫌がいいのだろう。なぜかと首をかしげそうになって、すぐに気づいた。
 なんだそうか、と、苦笑がこぼれる。

(俺も結構、単純な奴だな)

 急に苦笑いをし始めたユーリに、フィリアの表情が不思議そうなものに変わった。
 フィリアの目の前で、具合が悪そうなユーリから機嫌のよさそうなユーリに変わり、そして急に笑い出したのだ。不思議がって当然だろう。
 疑問符を浮かべるフィリアに、ユーリは小さく笑って手招きをした。

「ユーリさん?」

 招くままフィリアが、ユーリへと距離を狭める。なんの疑問もなく、警戒心もなく近づいてくれることに、今は安心すら覚えた。

「よっこいしょ」
「え」

 なかなか年寄りくさい言葉を吐きながら、自身の両腕をフィリアの背へ回す。そのまま引き寄せると、柔らかくて細い体がユーリの腕に収まった。

「あああ、あの、ユーリさん……!?」
「機嫌がいいのはな」
「え、え、え?」
「あんたがこうして『ここ』にいてくれるからだ」

 苦しくないように、けれど離す気は感じさせないように。しっかりと抱きしめていれば、やがてフィリアの体から力が抜ける。羞恥があるのだろうフィリアの体は、いつもより熱を持っていた。

「あ、あの」
「ん?」
「……ユーリさんのお言葉ですと、先ほどまで機嫌が悪かったように思えますが」
「ああ。さっきあんたと、あの学生さんが楽しげーに喋ってたから」

 学生という肩書きで先ほどのことを思い出したのか、顔を上げたフィリアが「キールさんのことですか?」と尋ねてくる。その問いかけに頷いた後、フィリアの口からその名前が出てきたことに多少の不愉快さを覚え、そんな自分の狭量さに気分が沈む。

「まあ、ユーリさん。それだとまるで、やきもちを焼いているみたいですわ」

 ひっそり落ち込んでいると、小さな笑い声とともにフィリアの声がかかった。思わぬ単語にユーリは目を剥く。まさかフィリアからそんな言葉が聞けるとは思わず、驚きで沈んでいたはずの気分が勢いよく浮かび上がった

「いや、妬いてんだけど」
「はい?」
「やきもち焼いてるぜ」

 ユーリの言葉に、フィリアがぱちぱちとまばたきを繰り返した。それから告げられた内容を噛み砕いたのか、次第にフィリアの顔が赤くなっていく。じわじわと朱に染まる様子は、見ているほうとしては面白い(と言ったら怒られるだろうか)。

「え、ええと、その」
「うん?」
「こ……光栄、です」
「……そうくるのか」

 フィリアの場合、もっと慌てふためいたり、羞恥で縮こまるものだとユーリは考えていた。「光栄です」という返答は、予想だにしていなかったことだ。そう言うと、ユーリさんだから、とフィリアが答える。

「俺だから?」
「はい。ユーリさんは泰然とした方ですから、あまりそういった感情を出さないと思っていたんです」
「へえ……俺、そう思われてたのか」

 やきもちを焼かれるよりも、落ち着いた人間と思われているほうが光栄な気もするが。

「でも」
「ん?」
「だからこそ」

 嬉しいですわ。少し、照れてしまいますけれど。
 頬を染めて、そろりと微笑んで、とろけるような声で言われて。

(…………なんだこの可愛いの)

 泰然なんて、自分にはまったく当てはまらない。そのことをこの司祭様に教えてやらねばと、ユーリは強く思った。

指摘されるまで気づかない辺りで「無意識の嫉妬」が表現できてればいいなと思いつつ
食堂にパニールがいないのはカノンノの所に行ってるとかで忘れてたわけじゃ