< 薄荷の効果と似て非なり >

「夜更かしが悪いとは言わないわ」

 わずかに開いた扉から聞こえた声に、ユーリは思わず足を止めた。聞き覚えのあるその声は怒りを孕んで、誰かに向けられている。聞き覚えのある声が果たして誰に向けられているのか、ユーリは確かめずとも知っていた。そうされるいわれが、彼女にあることも。

 そんな小さな出来事を経たある日の夜、ユーリは不意に目を覚ました。周りの暗さから、朝まではまだ長いだろうことがわかる。そのまま眠ればいいのだが、目が冴えてしまったのか、すぐには眠れない。しばらく考えたのち、水でも飲みに行こうとユーリは体を起こした。
 ギルド内には深夜でも活動をしている人間がいるため、食堂も開放されている。ただし、調理担当の人間は休んでいるので、何か欲しい場合は自分でやるしかない。ユーリの場合、それが不便であるということはなかった。
 とはいえ、今ユーリが必要としているのは水である。蛇口をひねればすぐに出てくるものなので、さほど労力を使うこともなかった。
 短時間ですむはずのことは、ユーリが向かった食堂にいる人物によって時間が延長された。

「……あれ」
「あら、ユーリさん。珍しいですね、あなたがこんな時間に出歩かれているなんて」

 ユーリの発した声に振り向いたのはフィリアだ。食堂からわずかに明かりが漏れていることから人がいるのはわかっていたが、ユーリはそれが彼女とは思わなかった。目をまたたかせながら、それでもかけられた言葉にユーリは返事をする。

「ちょっと目が覚めてな。なんか飲んでからまた寝直そうと思ったんだが……。甘い匂いがするけど、何か作ったのか?」
「はい。ホットチョコレートを」
「へえ、そりゃいいな」
「よろしければ飲まれますか? あ、でも、またすぐに眠られるのですよね。でしたら、濃い物は避けたほうがよろしいでしょうか」

 手に持ったマグカップを勧めようとしてまた戻しにかかるフィリアの行動を遮り、ユーリはもらうと告げた。返事を聞くより早くフィリアの手越しにカップを寄せて、口をつける。
 のどを通ったのは、程よい甘みと清涼感だった。

「? チョコレートにしちゃ、ずいぶんすっきりした後味だな。なんか入れてるのか?」
「は、はい。ミントを少し、入れています」

 手に触れられたことに対する羞恥か、フィリアの頬はほんのりと赤い。はにかむ姿に口元も緩んでいくが、しかしユーリはそれを苦いものへと変える。先達てのことを思い出したのだ。

「……ミントを入れたってことは、まだ起きてるつもりなんだな。こんだけすっきりするなら、眠気も覚めそうだ」

 ユーリは、問いかけではなく、確信を持った発言をした。それを受けて、フィリアの肩がわずかに強張る。確信は確定に変わり、ユーリは小さく息を吐いた。

「調べ物か読み物か。こんな時間まで続けた上に、まだやめる気はない、と」
「あ、あの、ですね」
「つい最近、ルーティに叱られた割によくやるな、あんた」
「! し、知っていらしたのですか……?」

 驚いたようにフィリアが声を上げる。先ほどまで赤かった顔が青ざめているのは、知られていたことに対する衝撃か、ルーティの耳へと届く可能性に対する恐怖か。ころりと変わる様相に、ユーリは笑いを噛み殺した。
 出てこようとする息をどうにか抑えたユーリは、努めて平静な声を出す。

「意思を曲げないってのも悪くないが、ルーティの言ってたことも正論だ。睡眠不足が原因で、戦闘中に怪我しちゃ世話ないぜ。心配して叱られてることくらい、わかってるんだろ?」
「……はい。それは、身に沁みています」

 肩を下げ頭をうつむける様子は、しょんぼりという効果音がつきそうだ。誰よりも自分自身が理解はしているのだろう。ただそれに熱中してしまうと、なかなか歯止めがきかなくなるだけで。

(まあ、それが短所と言えば短所なんだが)

 集中力が続くと言い換えれば長所になり得るが、この場合は甘やかしてはいけないだろう。何せ実害が出たのだ。ルーティから忠告を受ける少し前、フィリアは依頼中に怪我をした。見すごせるほど軽い事態ではない。

「というわけで、没収」
「えっ」
「諦めて休みな。これは俺が飲んでおいてやるから」
「でも」
「何か文句でも? それともルーティに伝言してほしいか?」
「い、いいえ! それは、できれば、やめておいてほしいです……」

 フィリアの語尾が、次第に小さくなっていく。諦めるだろうことを察して、ユーリは内心で安堵した。態度には出していないが、ユーリもまたフィリアの怪我について心配していたのだ。怪我をする一因を消せるのなら、深夜に目が覚めたのも悪いことではない。
 落ち込んだ様子を見せながらも食堂を後にするかと思っていたが、ユーリの予想に反してフィリアはそろりと視線を上げる。名残惜しそうな表情に、ユーリは首をかしげた。

「どうした?」
「あの……せめて、一口だけでも」

 もらえませんか、と、か細い声が落とされる。このまま眠るにしても、せっかく作った物を口にできないのは惜しいのだろう。彼女も、甘い物に目がないのだ。
 ユーリは、今度は笑いをこらえなかった。

「わ、笑わないでください」
「悪い、つい」
「つい、ではありません。ひどいですわ」

 頬を膨らませて、フィリアはそっぽを向いてしまう。機嫌を損ねてしまったことはわかるが、それでも笑みは引いてくれない。

「あんた、可愛いな」
「! ユーリさん!」
「本心だって。ほら、一口飲むんだろ」

 カップを傾け、清涼感のある甘味を口に含む。飲むことを勧めたはずのユーリがカップに口をつけたことに、フィリアは目をまたたかせた。
 そんな彼女の顎に手をかけ、上向かせる。ユーリがしようとしていることに気づいたのか、薄紫の目が大きく見開かれた。珍しく聡いなと思いながら、ユーリはフィリアにくちびるを寄せる。
 涼やかさの交じる甘いチョコレートを、舌先からフィリアの口腔へと伝わせた。苦しげな声と、触れ合う音がその場に響く。薄く開けたユーリの目に、フィリアの赤い目元が飛び込んできた。恥じらう姿はいつもと同じで、それは同時にユーリの鼓動も速まらせる。きっと今の自分も同じように赤いだろうと、ユーリは思った。
 こくり、とフィリアが一口分のそれを飲み込んだ音が聞こえる。それからゆっくりくちびるを離せば、熱を含んだ吐息がどちらからともなくこぼれていった。

「……まだ、いるか?」
「……も、もう、いいです」

 フィリアの顔は真っ赤だ。ユーリの頬も熱を持っている。くちびるも顔も、体も熱い。
 ユーリはほんの少しだけ後悔した。これではお互い、すぐには眠れそうにない。

薄荷じゃなくて口移しで眠れなくなるっていうアレ