< カミツレの誘惑 >

 食堂で大変な目に遭い、ユーリに衝撃の事実を知らされた後、アスベルは甲板へ出ていた。未だに胃の調子は悪く、室内で横になっているよりは外の空気を吸ったほうがいい気がしたからだ。

(うう、気持ちが悪い……)

 適当なところで腰を下ろし、船縁に背を預ける。すぐに体調がよくなるわけではなかったが、体に風を受けているといくらか気分がやわらいだ。
 深く息を吸って、吐く。それを何度か繰り返していると、ふと、人の気配を感じた。
 閉じていた目を開ければ、神服が飛び込んでくる。視線を上げれば、若草色のみつあみを揺らせたフィリアと目が合った。

「!? え、っと、あの……」

 体調を整えることに集中していたせいで、人が近づいていることに気がつかなかったアスベルは驚いた。冷静な反応ができず、うろたえてしまう。

「あっ、すみません、アスベルさん。なんだかご気分が悪そうでしたので、つい……」

 アスベルの反応を見て、自分が驚かせてしまったと感じたのだろうフィリアが、慌てて頭を下げた。いいや大丈夫だよ、と、答えるものの、急な動作に胃のほうが追いつかなかったようだ。吐き気を催して、咄嗟に手で口を覆う。

「アスベルさん!」
「だ、だいじょう、ぶ。ちょっと胃がむかむかするだけで……」

 実際に吐くわけにはいかないと、呼吸を整えなんとか悪心を飲み下した。
 粗相に至らず一安心する。それから改めて顔を上げると、申し訳なさそうな顔をしたフィリアともう一度目が合う。彼女は屈み込んで、本当に大丈夫ですか、と問いかけた。

「本当に大丈夫。さっきちょっと、……胃に悪いものを口にしたせいで、こんなことになってるだけだから」
「胃に悪いもの、ですか」
「ああ。その、彼女たちに悪気はないんだろうけど……」

 ぽつりとこぼれた言葉で何かを察したのか、フィリアの表情がなんとも言えないものに変わる。彼女は困ったように微笑みながら、試練を受けていたのですね、とそんなことを言った。

「アスベルさん、こちらをどうぞ」

 アレを試練と命名した後、フィリアは船内へと向かった。アスベルにここで待っているよう告げたので、何かをしに行ったのだろう。果たしてフィリアは、手にカップを持って再びこの場へ訪れた。

「これは?」

 手渡されたマグカップは温かく、顔を近づけると甘い香りがした。りんごに似ているような気がする。勧められるまま口に含めば、香りと同じように甘い。口当たりが優しく感じられて、それまで忘れていた安心感を覚えた。

「カモミールティーですわ。胃の調子を整える作用のあるペパーミントをベースに、ブレンドしてみました。お口に合うでしょうか?」
「ああ。おいしいよ。なんだかほっとする」
「それはよかったです」
「ありがとう、フィリア」
「いいえ。お役に立てたようで何よりですわ」

 礼を述べれば、嬉しそうな表情が返ってくる。彼女が持つ雰囲気のせいか、それまで味わっていた凄惨(というのは言いすぎだろうか)な気分が払拭されるようだった。
 ゆったりとした空気の中、カモミールティーを飲み干す。

「しばらくはゆっくりしていてくださいね。胃腸を整えるといっても、すぐに効果が出るわけではありませんから」
「ああ、わかった」
「では、わたくしはこれで失礼いたします」

 アスベルからカップを受け取って、フィリアがその場を辞することを口にした。カップを片づけるために、飲み終わるまで待っていたのかも知れない。
 立ち上がろうとするフィリアの手首を、アスベルは咄嗟に掴んだ。

「アスベルさん?」
「あ。……え、っと、カップは俺が片づけるよ」
「ですが、わたくしが自分からしたことですし」
「いいんだ、俺は助かったし。だからその、代わりってわけじゃないけど、もう少しここにいてくれないかな」

 我ながら恥ずかしいことを言っているような気がする。フィリアが困惑しているだろうことは見て取れたが、アスベルの口は止まらなかった。

「しばらくゆっくりしていたほうがいいなら、その間、話し相手になってほしいんだ。……だめ、かな」

 口は止まらなかったが、語尾は小さくなっていく。そんなアスベルにフィリアは、そろりと微笑んで「わたくしでよろしければ」と受け入れてくれた。

 思わず引き止めたのはなぜだろう。自問して、先ほど触れた空気を思い出す。
 穏やかで、ゆったりとした時間。そんな時を過ごすのが、ずいぶん久しぶりな気がしたからだ。彼女といると、そんな時間を過ごすことができそうな気がして。
 その誘惑に抗えなかったからかも知れない。

おっとりフィリアに癒されればいいとおもいます