< リリウムの風 >

 不意に甘い香りがして、ソフィは足を止めた。特に何を考えていたわけでもなく、ぼうっとしながら歩いていたせいで、何から香ってきたのかがわからない。きょろきょろと辺りを見回してみても、それらしいものは何もなかった。

「甘い香り?」
「うん」
「お菓子とかじゃなくて?」
「うん。食堂の近くじゃなかったし、お菓子とはちょっと違ったよ。どう言えばいいんだろう。……水っぽい?」

 首をかしげながら言葉を無理やり出してみると、向かいにいるシェリアが苦笑した。言葉の種類は多すぎて、今のソフィにはどれが最適か選ぶのが難しい。

「水っぽい、かあ。うーん、水っぽい……瑞々しいって言いたいのかしら。もしかしたら、お花の香りかも知れないわね」
「お花? ……そうかも」

 言われてソフィは、クロソフィを思い出した。ソフィの名前の元でもあるその花は、ソフィにとっても好ましい香りを放つ。お菓子とは違う甘さは、ソフィの不意を打つものと似ている気がする。
 ソフィはシェリアに礼を言って、その香りの正体を探すことにした。

「くんくん」

 最初に香りを感じた場所へ向かい、鼻を動かす。空気を取り入れるが、あの時の香りは今はまったくなかった。時間が経ったことで消えてしまったのだろうか。周りを見回しても、当時と同じく何もない。花瓶に花が活けてあるわけではないようだ。
 風が香りを運んできたとして、船内で風が生じるのは甲板に近いホールか、人が動いた時だ。ここはホールではないから、人の動きしか香りを運ばない。ではあの時、誰か人は歩いていただろうかと思い返すも、ぼうっとしていたソフィが思い出せるものはなかった。
 こうなると後は記憶だけが頼りになる。ソフィは足を動かしながら、香りを探し当てることに集中した。

「どうかしら、ソフィ。あれから、香りの正体は見つかった?」

 船内を歩き嗅覚を頼りに探し続けて二、三日が経ったが、結果は思わしくない。落ち込んだ気分で顔を伏せていると、慰めるようにシェリアに頭を撫でられた。

「船内で香ったなら、きっとすぐにわかるわ。案外、気を抜いてる時に見つかるかも知れないから、そんなに悲しい顔をしないで」
「うん……」

 気分転換にカニタマを作ろうかとシェリアが続けたので、ソフィはすぐに頷いた。
 二人で並んで食堂へと向かう。活けた花じゃないなら誰かの香水の可能性もあると言われて、ソフィはここに来る前に世話になったうちの一人である教官を思い出した。そういえば彼からは、いつも不思議な香りがしていた。大人の男の身だしなみと言われ、アスベルはどうしてつけていないのだろうと思ったものだ。
『アスベルはまだ大人になりきれていないからな』
 アスベルは子供だけれど、子供とも少し違うと言われたことも思い出す。大人と子供、子供だけど子供と違うもの。記憶がないせいなのだろうか、この世界は不可思議なものばかりだ。
 些細な一言がソフィを思考の渦へと沈めていく。そうしてまた視界がぼやけるような感覚の中、わずかに鋭くなった嗅覚がそれを捉えた。はっとして顔を上げれば、目の端を白い服が横切っていく。
 ソフィ、とシェリアが呼びかけたのがわかったが、ソフィは「彼女」に向かって走り出すことは止めなかった。
 回した腕が相手の驚いた声を生み出し、それと同時にソフィの鼻孔を甘い香りがくすぐる。ここ数日ずっと探していたものが、確かにそこにあった。

「ソ、ソフィ、さん……?」

 戸惑いの音が頭上に降ってくる。ようやく見つけられた喜びを口元に湛えて、ソフィは自分に顔を向けるフィリアを見上げた。

 事情を説明するため、驚くフィリアを連れてソフィたちはそのまま食堂へと来ていた。ソフィの隣に座ったシェリアが、向かいへ座るフィリアへこれまでのいきさつを話している。その間ソフィは、機嫌よくカニタマを食べていた。

「そうでしたか。ソフィさんは、香りの正体を探していたんですね」
「うん。見つからなくて落ち込んでたら、シェリアがカニタマを作るって言ってくれたの」
「シェリアさんはお優しいのですね」
「でも、怒ると怖いよ」
「こ、こら、ソフィ!」

 慌てるシェリアに、フィリアは微笑みを浮かべている。突然のソフィの行動に、最初は驚いていたフィリアだが、シェリアの説明を聞いてからはずっと穏やかな表情をしていた。急に抱きつくのは失礼だとシェリアから聞いてすぐに謝ったが、「大丈夫ですよ」と今のように微笑んで返してくれた。

(シェリアも優しいけど、フィリアも優しい)

 もくもくと好きな物を食べながら、ほわほわとほのかに香る甘い匂い。それをフィリアは、香水ではなくサシェだと明かしてくれた。
 サシェとは香料を布の袋に入れたもので、フィリアはそれを自室のクロゼットに入れているのだという。その香りを服に移しているから、フィリアからその香りがするのだろう。

「なんの香りなの? 甘くて、いいにおい」
「百合の花ですよ。教会にいた時に作った物なんです。お気に召されたのでしたら、ソフィさんにさしあげますわ」
「ううん、いらない。それはフィリアの香りだから、フィリアが持ってるのがいいよ」
「わたくしの香り、ですか?」

 目をまたたかせるフィリアに、ソフィは頷く。
 初めてその香りを知った時、ようやく探し求めて両腕に抱いた時、甘くささやかな香りの体現を目の前に見た時、それは崩してはいけないと本能的に悟った。

「うん、フィリアの香り。わたし、好きだな。ねえ、フィリアが嫌じゃなかったら、またぎゅってしてもいい?」
「まあ」
「ソフィったら」

 シェリアには止められてしまうかと思っていたが、フィリアからは構わないという言葉をもらえた。嬉しさに、これまでの数日の苦労など吹き飛んでいく。ありがとうと言って、ソフィは遠慮なく抱きつくことにした。
 フィリアの持つ穏やかな空気のように、柔らかく甘い香りがソフィを包む。訪れる幸福感に、ソフィの顔はますます綻んだ。

仲よくさせたかった。後悔はしていない
(などと供述しており)