< 乾坤一擲 >

 書類に視線を落とすフィリアの表情は暗く、次の瞬間にはため息をついていた。

「窓口がそんな、しけた顔でどうする」
「えっ、あ、リオンさん。こんにちは」

 顔を上げたフィリアが慌てて表情を改める。取り繕った笑顔に、リオンは顔をしかめた。

「何か厄介な依頼でもあったのか」
「いいえ、寄せられる依頼に厄介なものはありませんわ。どれも、さまざまな方たちの切願です。その願いを面倒なことだなんて、おっしゃってはいけませんよ、リオンさん」
「ご高説もっともだな」

 吐き捨てながら告げて鼻で笑ってみせるが、フィリアはリオンの態度に怒りを表さない。リオンの言わんとしていることを察したのか、あるいは指摘される前に自覚しているのか。
 フィリアは、そろりと出入り口に視線を向けた。

「……人が来る気配はない。ウッドロウも広場で街の人間に捕まっていたから、当分は戻らないだろう」

 リオンの言葉にしばらくの逡巡を見せたのち、意を決したようにフィリアも口を開いた。私事で申し訳ないのですが、と前置いて彼女は言う。

「スタンさんと、ルーティさんの『挨拶』について考えておりました」
「……挨拶?」

 予想外の単語を耳に受けて、リオンは思わず聞き返した。はいとフィリアは頷いて、先日あったらしい出来事を話す。
 田舎者、やら、守銭奴、やら、喧嘩のような応酬を二人がしていたこと。フィリアがとりなそうとしたが、二人にやんわり止められたこと。スタンとルーティにとっては「挨拶」のようなもので、喧嘩ではないと言われたこと。けれどフィリアにとって二人のやりとりが、胸の痛みを覚えるものだったこと。
 それらがとうとうと語られた後、フィリアはぽつりと呟いた。

「どうしてわたくしは、胸に痛みを感じたのでしょうか」
「……」
「お二人が口論をしていたわけではないとわかったのに、ただ、挨拶を交わしていただけで」
「お前は」

 心うちを吐露するフィリアを遮るように口を挿む。うつむきかけていた顔が上げられ、薄紫の目がリオンに向けられた。

「ルーティとナナリーの、阿呆らしい言い合いに嘆いたそうだな」
「阿呆らしい言い合い……あの、もしかして先日の漫才というもののことですか?」
「ああ」

 宿屋の一角で繰り広げられていたらしいそれを、フィリアは「神をも恐れぬ行為」と言わしめたそうだ。とはいえ、リオンも人づてに聞いたことなので、実際にフィリアがそんな極論を吐いたのかはわからない。真面目に取りすぎて、極論に似た発言をしたのだろうとは考えられるが。
 その情報を踏まえた上で、リオンは先を続けた。

「諧謔ですらそれと取れないお前のことだ。喧嘩じみた挨拶は、挨拶とは認めにくいんだろう。争いが嫌いでもあるお前は、『大事な仲間同士』の諍いを冗談でも見たくない。たとえそれが、戯れでもな」

 だから胸が痛むんだと、フィリアに向けて断言する。リオンの言葉を反芻しているのか、目をまたたかせた彼女は思案顔を見せた。

「……そう、なのでしょうか」
「ああ。それで納得がいくなら、そうだ」

 沈黙の後の問いかけに、リオンは言葉を選びながら頷く。そうするとフィリアは、リオンの望むような反応を見せた。

「そうかも、知れませんわ。仲のよいお二人が……たとえ真似事でも、言い争っている姿は目にしたくありません」
「お前らしい理由だ」

 言葉が途切れないよう、返事を繋げればフィリアが苦笑する。戸惑いの色は見え隠れしていたが、先ほど見せられた取り繕いの笑顔よりはよほどましだった。

 相談に乗ってくださってありがとうございます、このお礼は必ずさせてくださいね。今度こそ心からの笑顔で感謝の意を告げられ、リオンはギルドを後にしていた。入った時とは打って変わった様子に、リオンは面映ゆくなる。

『坊ちゃんってば、悪賢いですね』
「何がだ」
『だってフィリアのあれ、どう聞いてもやきもち焼いてたってことじゃないですか。それを、言い争いが見たくなかっただけとか丸め込むなんて、悪意に満ちてますよ。坊ちゃんてば、ワル!』

 相棒である剣がひそひそと非難してくるが、リオンは意に介さない。責められるいわれなど、自分にはないのだ。

「僕の言葉で納得できるなら、それまでということだろう。己の心情を自覚してない奴にそれを教えてやるほど、僕は寛容ではない」
『心が狭いって自分で認めてるんですか、坊ちゃん……』
「無自覚ほど面倒なものはないからな」

 しかし、フィリアへの発言は一種の賭けでもあった。リオンはそろりと本音を漏らす。
 フィリアのスタンへの慕情は見ていて明らかだ。憧れに近いものだとしても、気にかけているのは確かだった。ただフィリアは、その感情をはっきりとは自覚していない。確かな何かだと答えを出していないから、わからないものとして悩んでいるのだろう。
 だからリオンは、敢えて恋慕とは違う種類の答えを提示した。一つの可能性でもあるリオンの発言を、フィリアはどう受け取るか。肯定か、否定か。当たりか、外れか。

「賭けは僕の勝ちだった」
『……内心では、ものすごくほっとしたりしました?』
「黙秘だ」

 それって肯定してるようなものですよ、というささやきを無視して、リオンは歩を進める。歩きながら空を見上げ、小さく息を吐いた。

(隙があるなら、つけ込むまでだ)

 自覚前なら黙っているわけにはいかない。

まあ、フィリアが自覚したところで黙ってる坊ちゃんでもないんですけどね