< 月に惑う >
月光浴は、特に女性にとっていい影響があるものらしい。誰かから聞かされたのか、どこかで目にしたのか、出所ははっきりしないが知識はあったようだ。月に引かれるように外へ出ていく女を見かけた時、ユーリの頭の隅からそんな情報が出てきた。
声をかけるつもりは、最初はなかった。ただ女の表情が、陶然と自失をないまぜにしたようなものだったので、気になってしまったのだ。
「今夜はいい月だな」
ぼんやりとも、うっとりとも取れる表情で月を見上げるフィリアに、ユーリは言葉をかける。音を立てず背後から声をかけたせいか、フィリアは肩を揺らせてこちらを振り向いた。不本意に驚かせてしまったことを、ユーリはすぐさま詫びる。
「悪い」
「いえ、わたくしもぼうっとしていましたから。こんばんは、ユーリさん」
綺麗な月ですわ、と先ほどのユーリの呼びかけに答え、フィリアは再び月に目を当てた。満月なだけに、降りそそぐ月明かりも普段より強い。夜にしては目映い月影は、自身を見上げるフィリアを照らしていた。
白い服のせいか、職種のせいか、月光を浴びるフィリアはどこか神聖なものに見える。彼女自身が光を放っているような錯覚すら起こしそうだ。
「知っていますか、ユーリさん。月は、この星や海に大きな影響を与えるものなんです」
「ああ、なんとなくは聞いたことあるぜ。引力がどうのこうの、月の満ち欠けが生物に連動してるとかなんとか」
「ええ。そこまでご存じだったなんて、ユーリさんは博識でいらっしゃいますわ」
「いや、俺も聞いたことがあるようなだけで、詳しいこともはっきりしたことも知らねえんだ。でたらめだよ、でたらめ」
手を振って否定すると、フィリアは苦笑した。謙遜しなくてもいいのにと彼女は言うが、本当にうわべだけなのだ。謙遜のけの字も、ユーリは意識していない。
「ああ、でも、女性にとっちゃ月光浴はいいらしいんだろ?」
「そうですね。月の周期がちょうど女性の生理現象とほぼ同じだそうですから。生態リズムに同調させてバランスを整える働きがあるのでしょう」
ためらいなく述べられた内容にユーリは動揺した。フィリアが言っているのは月経のことだろう。女性が、特にフィリアのような初心な人間が、そういうことをあっさり言ってのけるとは思っていなかった。それとも、生きる上での必然である生理現象を恥じる理由はないということなのだろうか。
「反面、女性が月を見ることを禁忌とする伝承もあります。月齢が人間の生理・精神的な事象に悪影響を及ぼすという俗説もあるんです。後者に至っては根拠のない話なので、真実とは言い切れませんが」
夜空を仰ぎ見たまま、フィリアは続けた。
けれど確かに月は影響を与えるのだ、と、彼女は言う。いい意味でも、悪い意味でも、月には力があるのだと。
おもむろに、フィリアの視線がユーリへと移る。薄紫の目をユーリのそれと合わせて、彼女は口を開いた。
「ユーリさんはどちらですか?」
「え?」
「ユーリさんにとって、月は『神聖なもの』でしょうか。それとも『魔性のもの』ですか?」
不意の質問に、ユーリは即答できない。唐突な問いかけであったことも、その内容も、ユーリの回答を簡単なものにさせないでいた。
フィリアにとってそれは、大した意味のない質問だったのだろう。答える気配を見せないユーリに、フィリアは苦く笑った。
「すみません、ユーリさん。わたくしの好奇心が、徒にあなたを悩ませてしまったようで」
「俺は」
質問を取り消そうとしたフィリアを遮るように、そこでようやくユーリは口を開く。視線を外そうとしたフィリアは軽く目を見開いて、再びユーリに顔を向けた。
「惑わすものなんじゃないかと思う」
月光を帯びた夜空よりも淡い色をしたフィリアの目を射抜くようにじっと見て、ユーリは答える。ぱちぱちと二度、三度まばたきを繰り返して、フィリアはユーリの返答を復唱した。
「魔性のものということですか?」
「そう、だな。そうなるな。悪魔じゃなくて、神聖なものに惑わされてるが」
ユーリが苦笑をこぼすと、フィリアは首をかしげる。その拍子に揺れた若草色は月明かりでこんじきに見え、その輝きはユーリの目を眩ませた。
くらくらする、足元が覚束ない。そのまま足をふらつかせれば、支えようとしたのかフィリアが動いた。
伸ばされた白い手を取って、ユーリさん、と紡がれるはずの音を奪う。
鈴を転がすようなフィリアの声は嫌いじゃないが、今は違うものが欲しかった。
「っ……、ユ」
「どうしたわけか」
たまゆら合わさったくちびるを少しだけ離して、至近の位置でぽつりと呟く。吐息がくちびるに触れたのか、フィリアは声を詰まらせた。
「月下のあんたは肉欲的だな」
月の光がフィリアをそう見せるのか。あるいは月の影響がユーリを衝動に駆らせたのか。
どちらにしたところで、月は魔性だと。
再びフィリアへ口づけながら、ユーリは思った。
ユーリだけじゃなくて、フィリアもまた月に惑わされてるという裏設定
「月の周期が~」の部分をさらっと言えたのもそのためです